「敗因と」 第5章 --- 晩餐 --- P. 153〜

P. 153〜 (文:木崎 伸也)

クロアチア戦を3日後に控えた6月15日の午後7時―――。
中田英寿が呼びかけて実現した決起集会が始まった。
この会の前にあらかじめ日本サッカー協会のスタッフが来店して、どういうふうにテーブルを配置するかを上條と話し合っていた。店内には全部で50席あるが、ばらばらに座ったらこの会の意味がないということで、入り口からまっすぐ進んで突き当たったスペースにテーブルを集めることになった。

「最初は店の全部のスペースを使って、もっとゆったりと座るって話もあったんですが、窮屈でもいいから、一ヶ所に集めてやろうということになったんです」

10畳ほどのスペースに、12人がけのテーブルと、8人がけのテーブルが平行に並べられた。
ちょっと手狭だが、それぞれのテーブルの端、いわゆるお誕生日席に誰かが座れば、ちょうど22にんがこのスペースにぴったり収まることになる。

残念ながら中村はワールドカップ開幕前に風邪をひき、オーストラリア戦後にさらにその風邪をこじらせてしまったので、この食事会には参加できなかった。
ひとりだけ参加しなかったことで、大会後にチームメイトとの「不仲説」が流れたが、中村と親しい遠藤はそれを否定する。

「シュンはドイツに入ってからずっと体調が悪かったんで。僕はそれを知ってました。体調が一番大事だから、無理をしてまで行くこともないだろうということで。もちろんまわりにはうつしちゃいけない、ってシュンは思っていただろうし。ドクターとかと相談して『今日はやめといたほうがいい』って多分言われてたと思う。不仲ということはまったくないです」

3日後のクロアチア戦でも熱が下がっていなかったことを考えると、この日は無理して食事会に出られる体調ではなかったのだろう。

代表のバスが店の裏通りに横付けされ、選手たちが店の中に入ってきた。
中田英寿はのれんをくぐると、すぐに上條のもとにきて挨拶した。
「事務所のスタッフから、話を聞いてますよ。彼女は僕のお姉さんみたいなもので。今日はよろしくおねがいします」

サッカーに興味のない上條とはいえ、サッカーの枠に収まらない中田英寿という存在はよく知っていた。週刊誌や新聞で、ファンが嫌いでサインにも写真にも応じないという記事を読んだこともある。だが、それが偏見に過ぎないことがすぐにわかった。

「代表の中で、一番ちゃんと挨拶をしてくれたのは中田くんなんですよ。マスコミで報道されているのとは全然違った。彼と話をしていると、この青年はサッカーを辞めて一般社会にぱっと入っても、やっていけるという感じがしました。選手によっては、サッカーの世界からは出られないな、っていう人もいたけど」

旧西ドイツ時代、『かみじょう』にはよく政治家が顔を出したし、今でも日本企業のお偉いさんが来ることも多い。人間観察の目が肥えている上條にとっても、中田英寿は特別な存在に映ったのである。

次々に選手が入ってくるが、わからない顔が多い。ただ、髪型に特徴があると、判断はしやすい。店に長髪で色黒の大男が威勢よく入ってきた。
これが中澤か。なかなか元気じゃないか――――。

オーストラリア戦からまだ3日しか経っていないこともあり、なかにはうつむいて入ってくるものもいた。身体が疲れているというより、気持ちが疲れているように見えた。

どこに誰が座るのかなあと眺めていると、予想していたとおり、幹事役の中田英寿が大きい方のテーブルの誕生日席に座った。キャプテンの宮本が、それをサポートするかのように横に座る。
その2人が座った12人がけのテーブルには、川口、中澤、三都主、遠藤、加地亮大黒将志らがついた。8人がけのテーブルのお誕生日席には、年長者の土肥が座った。このテーブルには、小野伸二、高原直康、、稲本潤一中田浩二坪井慶介ら黄金世代や茂庭照幸がいる。

「乾杯!」

一応、日本サッカー協会は生ものやアルコールを禁止していたが、それはあくまで建前で、「選手だけで外に出すのだから、少しくらい選手が飲むことは覚悟している」と協会総務の湯田和之は上條に告げていた。

ビールや焼酎がふるまわれた。下戸の三都主は、前回来たときと同じようにラムネで乾杯した。

(中略)

あの夜のことを、茂庭はこう振り返る。
「食事会はメチャメチャよかったですよ。俺はすげぇ盛り上げて。あとから聞いたら、辛口のコメントとかをみんなにバシバシ言ってたらしいんですよ。冗談でツネさんに『東京にきても試合に出られないよ。俺がいるから』とか。笑いながら、バンバンそういう話をして」

(中略)

会が終わりに近づいたころ、中田英寿が壁にかかっている日の丸を見つけて、ひとつの提案をした。
「みんなでアレにサインをしない?大将、マジックある?」

ここでひとつ、世間で大きく誤解されていることがある―――。後日、この日の丸に6人だけサインをしてないことが週刊誌や新聞で大きく扱われ、あたかも6人が中田英寿の呼びかけを拒否したかのように伝えられた。

これは大きな間違いです、と上條は言う。
「開幕前にドイツ人のお客さんが、日本国旗をプレゼントしてくれたんです。結構、大きかったので奥の壁に貼ってあった。その壁の前に中田くんたちがいる方のテーブルがあって、もうひとつのテーブルの選手はみんなをどかさないと、そこまでいけない状況だったんですよ。とにかく狭いスペースに(テーブルが)2つ並んでいたから。それに中田くんが大きな声を出して呼びかけたわけではないので、気がつかない人もいたと思う。特にもうひとつのテーブルの奥に座っていた高原くんや稲本くんは聞こえなかったんじゃないかな。ある週刊誌には小野くんのサインはないって書いてありましたけど、あれも間違い。彼のサインはありますよ」

サインをしなかった一人である茂庭も、この報道には納得がいかなかった。
「じゃあ帰ろうかというときに、サインがどうとかは聞こえたんですけど、みんな結構、酔っ払ってて。『茂庭、おまえサインしろ』みたいなことを言われたのは覚えているんですが、ノリで『じゃあ、自分頬にサインします!』とやって。そのまま帰ったんです。自分はどちらかというと、そういうのを率先してやるタイプ。知っていたらサインしたかったですよ」

(中略)

この食事会で選手がアルコールを口にしたことに関しては、一部の専門家から批判が出ているのは確かだ。元京都のフィジカルコーチで、松井大輔朴智星のコンディションを管理した経験を持つミハエル・ヴァイスは、この報道を聞いたとき耳を疑った。

「試合の3日前に、たくさんアルコールを飲んだら、試合に影響が出るのは当たり前。アルコールは体内から水分を奪い、体から老廃物がなくなるのを妨げ、疲労回復を遅らせるんです。ましてワールドカップで過密日程だというのに・・・・・・」

しかしながら、コンディション面を犠牲にしたとしても、オーストラリア戦で打ちのめされた選手たちが、、気持ちをひとつにできるということを再確認できたことは大きい。この夜の一体感さえ忘れなければ、ピッチ内でも気持ちをひとつにできる―――はずだった。

「敗因と」 第4章 --- 七色 --- P.124 〜

P.124 〜 (文:金子 達仁)

ヒディンクへの質問と回答〕

(中略)

Q4、 ドイツ・ワールドカップでの日本代表を、オーストラリア代表監督だったあなたは、どのような評価をしていたのか?
A4、 日本代表は技術的に素晴らしい。戦術的にはやや守備的が基本。精神的強さは、オーストラリアのほうが決定的に強い。

Q5、 日本戦で想定していなかったところはあったか?それはどのようなところか。また敗北を覚悟した瞬間はあったか?
A5、 我々は試合の終盤になればなるほど力強くなることを知っていた。逆に日本は試合の終了間際に弱体化することも知っていた。

(中略)

エマートンを中央に持ってきたわけは?」
「オーストラリアチームの話か。なぜって、エマートンは右サイドでいい仕事をしているからだよ。攻撃力があるだろう?あいつを使うことで、相手のオフェンスの強い部分を封じ込めることができる。それが一番の理由だ」

「それは日本に対しての戦略上でということでしょうか?日本に対して、彼が中央にいることが有効であったと?」
「そうだ。エマートンはディフェンスプレーヤーだけど、攻撃がパワフルだから。でも相手に攻撃に出られたら、守備に回らされるでしょ。それは痛いよね。エマートンも、そういうことは好きじゃないだろう。オフェンスが強いやつは、ディフェンスは不得手なものなんだよ。そして、エマートンのようなパワーのあるディフェンダーがいて、相手が守りが不得手な場合、アタッカーが一人多めにいるということになる。そこに、意味があるんだ。相手のアタッカーを彼らが苦手な役割に押し込むんだ。意義はあったよ」

オーストラリア代表選手の中には、本来は右サイドでプレーするエマートンがセンターで使われたことに対し、はっきりと「驚き」を口にする者もいた。彼らにとっても、それが未知のシステムだったからである。

(中略)

「さほど攻撃力のないウィルクシャーを右サイドに使った理由は?」
「同じようなシチュエーションだね。彼はよく走るとてもモダンな選手だ。エマートンについての質問と同じような答えになってしまうけど、ウィルクシャーの場合、攻撃力はなくても走り惜しみしないミッドフィールドプレイヤーだから、相手としては追いかけて走り回るのに疲れてしまう。アタッカーというのは、大抵が攻撃のことばかり考えるもので、守るのは好きじゃない。こういう攻撃の弱みを攻めてやろう―――そこが戦略の練りどころだったんだ。守るほうではなくてね。繰り返すが、どうしても守るのが好きじゃない選手はいるものだよ。だから、そういう相手を守りに追い込むと、こちらはピッチ上に、常にアタッカーが1人余分にいる状態に持っていけるわけなんだ。相手は消耗することで弱くなる。そして、一度弱気になれば、攻撃の時にもゴールが遠くなり、さらに弱気になるものだよ」

そういうと、老眼鏡をかけたオランダ人は「してやったり」と言わんばかりの笑みを浮かべた。出会ってから、初めて見せる笑顔だった。

(中略)

「オーストラリアを相手にするならば、ブリティッシュ・スタイルの強力な3人シフトのディフェンスに対して2人のストライカーを持ってくるなんてことはしちゃダメなんだ。なぜなら、相手は強いんだから。そうだな・・・・・・、私だったらストライカーを1人にしてサイドから攻めるだろう。右から左から攻めるだろうね。ブリティッシュ・スタイル――――オーストラリアチームのスタイルはブリティッシュだったから、そういうディフェンス相手に力で真っ向から攻めるのは相手の思う壺ってことになる。ところが、そういうチームは左右に振られると、コーナーからコーナーへと走らされると、ダメなんだ。苦手なんだよ。だから相手の強いところ、弱いところを把握して、それに応じて方針を考えないといけなかったんだ。私たちはストライカーが2人で攻めてきたことに喜んでいたんだよ。あの試合、日本は2人のストライカーの布陣だっただろう。それを見たときは、『やったぜ!』って感じだったね」

「どんどんぶつかってこい!せめぎ合いはお手の物だ!そんな気分だったね。オーストラリアチームはガッツがあるし、フィジカル的にも戦略的にも、そういう戦い方はお手の物なんだ。ところが、一度違うところから揺さぶられると、『あれ?』となる。ぶつかり合いたいのに、ぶつかってくる相手がいない、、どうしたことだ―――というふうになるんだ。グラウンドの思ってもいないところから敵が入ってくるから」

「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.109 〜

P.109 〜 (文:木崎 伸也)

2002年大会の期間中にプールサイドで行われたバーベキューでは、中田浩二トルシエとともに中田英寿をプールに突き落としたことがあった。彼はこの無口な男とフラットに接することのできる数少ない人物なのである。ドイツ・ワールドカップに向けて、ボン合宿が始まると、ひとりぽつんとウォーミングアップしていた背番号7を見て、中田浩二はボールまわしの輪に誘った。

中田英寿も照れて、後ろで手を組んで遠慮がちにリフティングゲームに参加していたが、数分も経つと笑顔が出始めた。得意のノールックパスでいたずらするほどの余裕は見られなかったが、開幕を控えて、ついにチームのなかに入ってくるように見えた。
しかし----------。
そんなムードを中田英寿は自ら、土台からひっくり返してしまう。中田浩二でさえも、その発言だけは「何で?」と思わざるをえなかった。

ワールドカップ開幕を控えた6月4日、1−0に終わったマルタ戦後のことだった。日本はFIFAランキング125位の格下相手に、前半2分に玉田圭司が決めて先制したものの、その後はチャンスを外しまくり追加点を奪うことができなかった。ワールドカップ前の最後の親善試合だというのに。

試合後のミックスゾーンに現れた中田英寿は、目を鋭く細め、テレビカメラの前に立った。
「収穫はないですね。どういうプレーをするかという以前に、走らないことにはサッカーはできないのでね。その根本が今日の試合ではできなかった」
-------身体と気持ち、どちらの問題ですか?
「気持ちの問題です。それぞれが感じなければどうにもならない。僕は自分のコンディションを上げていくことだけに専念するだけです」

これで、すべては台無しになった。
中田浩二は、ため息を押し殺すようにして言った。
「僕らからすると、マルタ戦はそれほど悪い内容だとは思わなかったし、チームメイトにむけたコメントだったら、直接言ってほしい気持ちはあったかもしれない。しかも初戦にむけて雰囲気を上げていかなきゃいけないときだっていうのに。多少きつい部分はありますよね。ミックスゾーンを通ったら、中田英寿選手がこういうこと言ってましたけど、と聴かれるし、当然みんなの耳に入ってくるんですよ。俺はあんまり気にしないようにしてたし、まあ、いつものヒデさん流の戒めかなと思って聞き流してたけど」

(中略)

だが、中田浩二ほど割り切って考えられない選手もいた。そもそも、彼らは最初から中田英寿に対して親近感も持ってない。せっかく静まりかけていたヒデへの怒りがぶりかえした。
不穏な空気を、中田英寿は感じ取ってしまったのだろう。その後、中田浩二が誘っても、輪に入ることを拒むようになる。

「誘ってるんですよ、こっちは。常に誘ってる。でも、ヒデさんはボン合宿の途中からやらないって言って」

(中略)

日本代表の人間関係は、糸のように絡み合っていた。そんななか、中田浩二だけはその切れそうになる糸を最後まで放そうとしなかった。しかし、ワールドカップ開幕が迫っているというのに、多くの選手は糸をたぐりよせるのを止めてしまったのである。

ワールドカップ後、川淵三郎キャプテンは、ロイター通信のインタビューにこう答えている。
中田英寿は他の選手と交流を持つことができなくなっていた。他の選手から無視されることもあり、どうやって意思疎通を図っていいのか分からないと悩んでいた」

日本サッカー協会のトップが立場をわきまえずに、ひとりの選手を擁護するという行為の善し悪しは置いておくとして、この発言が中田英寿寄りであることに他の選手たちは傷ついた。

「俺たちがヒデを無視していたんじゃない。俺たちが無視されていたんだ」

ある選手は中田英寿という日本サッカー界の歴史人物に興味があり、彼から何かを得られないかと積極的に近づこうとした。だが、中田英寿は壁を作り、近づくことを許さない雰囲気を醸し出していた。

「あの人は、本当に独りが好きですからね。そんなに独りが好きなの?って思うぐらい独りですから。あれだけすごい人だから、もっと絡みたかったんです。でも、俺が積極的にいくのがウザかったみたいで。態度や空気でわかりますから。あれ、熱いのは自分だけ?(ヒデさんは)何で冷めてるんですか?って感じで。自分なりに、盛り上げなきゃ、と思っていたんですが・・・」

プライベートでは無口なのに、たまに言葉を発したかと思えば、それはチームメイトを斬りつけんばかりの鋭い要求だったりする。息がピタリと合ってなければいけないはずのFW陣との関係も、ギクシャクするようになった。

(中略)

ワールドカップ期間中に膨らみ続けたしこりは予想以上に悪性化し、中田英寿がブラジル戦後にピッチに横たわり泣いていた姿でさえも、人気取りのための演技だったと感じる選手もいた。大会終了後、FIFA公認のサッカー映画『GOAL!3』の一場面に、そのシーンが使われることが決まると、疑念はさらに大きくなった。

ワールドカップをヒデの引退に利用された、と。

「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.101 〜

P.101 〜 (文:木崎 伸也)

人間というのは不思議なもので、いったんジーコの手腕についてダメだと思うようになると、レギュラーが保証されている選手までをも否定的な目で見るようになってしまう。ジーコでなければ、この選手は先発してないだろう、というような思考回路で。
実際には、出場するからには何かしらの長所があるに決まっているのだが、嫉妬心もあいまって、チームメイトの不満の標的ができあがっていた。
ジーコのチームにも、そういう選手は3人いた。

中田英寿宮本恒靖三都主アレサンドロ

三都主は、言うまでもなく、ジーコと同じブラジル人である。
ある選手は言う。
「アレックスはパスのタイミングが違うってみんな言ってる。もちろん彼のドリブルは攻撃のアクセントになるけれど、89分間ダメで1分だけいいというタイプの選手がDFラインにいたら、そりゃあたまらないでしょ。FWならいいんだけど」

(中略)

宮本への批判はもっと痛烈だった。ほぼ全員がJリーグで宮本と対戦して、フィジカルの弱さを痛感しているだけに、いくらリーダーシップがあるだとか、カバーリングがうまいだとか言われても、皮膚感覚の奥底に残っている記憶がこの実直なキャプテンを否定してしまうのである。一対一のディフェンスという意味に限れば、日本人から見ても宮本は対戦するのが恐くないDFだった。「片手だけで抑えられる」ともらす選手がいるくらいに。

(中略)

宮本の大きな武器は、計算されたラインコントロールであったり、細かなポジショニングの修正であったり、一瞬の読みによるパスカットにあるが、それは前線からのパスコースをきちんと限定して初めて発揮される長所でもある。残念ながらジーコは、そういう緻密な戦術にはこだわりを持っていなかった。サイドも中盤も隙が多く、論理的なディフェンスは組み立てにくい。ジーコのような大雑把なサッカーでは、リーチが長かったり、スピードでシステムの粗さを補うことができるフィジカル系のセンターバックのほうが、より求められる。

いつしかこんな言葉ができた。
日本代表の七不思議。
代表にツネがいること。

努力しても克服できないフィジカルの短所は、個人としての嫉妬とチームとしての危機感がごちゃまぜになって、常に陰口の火種になった。

本大会が始まると、このリストには中村も加えられた。彼のテクニックと正確なフリーキックは誰もが認めるところだが、体調が悪いにもかかわらず、ジーコが起用し続けたことでチーム内での立場は最悪になった。熱でほとんど動けない選手が先発するのだから、控えの選手からしたら文句の一つも言いたくなる。

「そりゃあ聞かれれば、俊輔も『やれる』と答えるでしょう。誰だってワールドカップに出たいですから。でも、どんな体調だろうが、先発するっておかしくないですか?」

(中略)

基本的には中田英寿も、3人と同じような事情でチームメイトから妬まれていた。
ただ、チームメイトは三都主、宮本、中村のプレーについてどんなに文句を言おうと、プライベートになれば普通に接した。

しかし、中田英寿の場合は違った。ひとりだけマスコミを無視し、他の選手と打ち解けようとせず、一方的な物言いをする。そういう傲慢とも受け取れる振る舞いを目の当たりにすると、本来であればピッチ内だけで収めるべき感情が、プライベートでも滲み出てしまう。

中田英寿代理人を8年間務めたジョバンニ・ブランキーニも「彼を日本の総理大臣にするべき」と評価する一方で、孤立しがちな性格だけは短所だと思っていた。

「ヒデはどこのチームでもつねに関係者やファンに愛されていました。なぜなら、ワガママを言うことはないし、ルールはきちっと守るし、練習には一番に姿を見せる。そういった姿が、周囲から高い評価を受けていました。ただ、そういう仕事の世界では素晴らしいのですが、そこから離れるとどうしても彼は閉鎖的になってしまう。ヒデはセリエA時代にチーム内では同僚といい関係を保っていたのですが、仕事から離れると自分の殻にこもってしまっていた。みんなと一緒にいるのを好まない性格でした。練習でも、移動でも、合宿でも、みんなとうまく付き合うのですが、グラウンドを離れると彼には自分の人生があって、その人生と現場をあまりミックスさせないところがありました。この考え方は、ヨーロッパではちょっと理解し難いところがあります。ヨーロッパではすべてをひっくるめて、友だち付き合いをする。イタリアでは、そのことが悪く報道されてしまうこともありました。仕事とプライベートを完全に分けていたことを、良く思っていない人もいたんです」

ブランキーニが言うことは、日本に置き換えてもそのまま当てはまるだろう。ピッチから離れた途端に冷たくなったら、誰だって違和感を憶える。

「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.98 〜

P.98 〜 (文:木崎 伸也)

変わったのは周りの態度だけではない。代表にブランクがあったことが、中田英寿の周囲への接し方をひどくぎこちないものにしていた。
ボランチのパートナーである福西を、テレビカメラが撮影している目の前でどなりつけたこともある。反論の機会は与えない。一方的に、高圧的に、あたかもすべて自分が正しいんだというように声を荒げた。
のちに中田英寿はNHKのインタビューで、なぜチームメイトに暴言に近いほどの汚い言葉を浴びせ続けたかの真意を語っている。
「試合でコンチクショウと思いながらやるエネルギーになればと思って、他の選手にはとにかくこちらの意図を伝えました。みんなの気持ちを引き出すために、僕が考えてわざとやったことです。ケンカしながらじゃないですけど、むこうも『何だ?』っていうエネルギーが、ガンガン前に出るような感じがあったんで、非常にいい精神状況でやれたんじゃないかと思う」

(中略)

ある試合で、後半に退場者が出たときのことだ。ひとり少なくなったことの穴埋めで守備陣は手一杯になり、DFラインの裏への走りこみに対してボランチが戻らなければいけない状況になっていた。たまらず、DFのひとりが「さっきみたいな走り込みに対してはマークについて欲しい」と頼んだ。 すると中田英寿は突然、激昂し、咆えたという。
「お前がついていけばいいんだよ」
「いや、今は俺は他のマークについていたし、絶対無理です。だから、ついてください」
「はあ?俺はお前に気づいてるから言ってるんだぞ。分かってるのか?」
そのDFは思った。なぜ、平等な立場であるべきチームメイトに、一方的に怒鳴られなければいけないのか。ヒデには意見しちゃいけないっていうのか?あなたは王様なのか?

2005年のコンフェデレーションズカップではとうとうチームメイトがキレた。
メキシコ戦でボランチの位置に入った中田英寿があまりにもオーバーラップするので右MFの小笠原満男はそのカバーリングに追われていた。ハーフタイムに小笠原は中田に詰め寄った。
「もっと守備をしてくれ!」
人間関係の軋轢を嫌うジーコはずばやく仲裁に入り、「あまり前線に上がらないで欲しい」と中田英寿に頼んだが頼まれた側にしてみればフラストレーションの溜まる要求だったのだろう。
コンフェデレーションズカップのブラジル戦前日のミックスゾーンで、中田英寿はいつも以上に不機嫌にこう答えている。

「もう少し積極的に、勝ちにつながるようなプレーをしたいけど、守備のバランスを考えて、それをやりきれないところがある。チームの状態はいいけど、個人としてもっと結果をともなうプレーをしたい」
中田英寿は代表のホテルではルームサービスで食事を済ませることもあったという。ジーコは食事時間についても「何時から何時までの間に済ませればいい」と自由だったが、規律に厳しいトルシエ時代ならば絶対に許されない行為だった。ジーコは何も言わなかったが、違和感を憶えるチームメイトも多かった。
ひとりだけミックスゾーンを素通りするというスタイルも、些細なことではあるが反感を買った。

「なんで、あいつだけ特別扱いなんだ?」
普段なら何でもないような雨水でも、地表に小さな傷があると、土はえぐれ、大きな溝へと変化していく。
溝は深まるばかりだった。

「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.94 〜

P.94 〜 (文:木崎 伸也)

中田英寿と他の選手たち------とくに黄金世代------との間に溝ができたきっかけは、怪我による長期離脱にあった。

(中略)

そんなとき、2005年3月、ワールドカップアジア最終予選のイラン戦という大一番で、中田英寿が代表に復帰することが決まった。
本来であれば喜ばしいことなのだが、すでにチームが完成しつつあることもあって、「ヒデが帰ってきたら、ジーコはどうするんだろう?」と心配する選手も少なくなかった。
話題の中心は、システムのことだった。

この頃になると、すでに選手たちはジーコに戦術を徹底させる意志がないことを悟っていた。
どこからボールを取るか、どうやって相手を追い込むかといったヨーロッパの概念からすると基礎中の基礎である戦術的な指示をジーコは全くしようとしない。それがブラジル流なのかもしれないし、ただ日本の選手が受け見過ぎるからかもしれないが、選手は戸惑うばかりだった。

ワールドカップ最終予選の初戦となった北朝鮮との試合後、ある選手はヤケクソになってこうもらした。
ジーコじゃ、やばいよ」

そんななかで選手たちの拠り所になったのが、3−5−2というシステムだった。3バックは2人のセンターバックの後ろに、スイーパーが控えている古典的なシステムだ。どうしてもラインは低めになってしまう。だが、全体をコンパクトにすることを犠牲にする代わりに、トップ下(中村)、両ウィングバック(加地、三都主)、ダブルボランチ(小野、福西)といように、中盤の5人の選手たちの役割が非常にはっきりするのである。

(中略)

選手たちからすれば、ワールドカップ最終予選のそれもアウェーのイラン戦という大一番では、当然、3−5−2で戦うだろうと思っていた。中田英寿の離脱以降はほとんどが3−5−2だったし、その間に小野や稲本といった中心選手がいなくても3バックがメインだった。
しかし、2005年3月、イラン戦で中田英寿が戻ってくると、ジーコはシステムを4−4−2に変更することを決断したのである。

選手は激怒した。
「なんで4バックに戻すんだ。ヒデを出すためだけに、システムを変えるっていうのか?」
もし3−5−2のままなら、トップ下に中村、ダブルボランチには小野と福西が入るので、ヒデにはポジションがない。ヒデを出場させるためには、もうひとつMFのポジションを作らなければいけない。だから、4バックになった--------。

中田英寿ジーコがイタリア語で仲良く話しているのを見るたびに「えこひいきじゃないか」と勘ぐる選手たちが出てきた。

(中略)

結局、日本はイラン戦で一度は追いつきながらも、1−2で負けてしまう。イランに負けたのはヒデが戻ってきたから。チームの中にそういう空気が漂いはじめた。
イラン戦の5日後に行われたバーレーン戦では、宮本と中田英寿からの直訴もあってジーコは慌ててシステムを3−5−2に戻したが、今度は中田を慣れないボランチにコンバートしてまで先発させた。
中田英寿に対して、否定的な空気が広がっていった。

シュート練習で、鋭いパスが来る。パスのスピードは受け手の気持ちを逆なでするほど早く、さらに目の前でショートバウンドする。まわりで見ているチームメイトはささやいた。
「また”キラーパス”がきたな」
相手のDFを殺すのではなく、仲間を殺すパス----------。
チームでは”ヒデ不要論”が噴出し、何人かの選手は「ヒデは終わった」とささやきあった。

「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.92 〜 P.94

P.92 〜 (文:木崎 伸也)

日本代表が宿泊していたボンの4つ星ホテル『ヒルトン』は、ライン川沿いの見晴らしのいい場所にあった。
窓を開ければ左手にはケルンのテレビ塔が見え、右手にはジーベンゲビルゲと呼ばれる標高500メートル級の山並みが広がる。

(中略)

日本サッカー協会にとって誤算だったのは、この4つ星ホテルには客室数が252もあり、ワールドカップ期間中に貸し切ることができなかったことだ。ドイツ人のビジネスマンはもちろん、情報を聞きつけた日本の女性ファンが平然と泊まり込み、練習を見に来たついでにホテル内に侵入するストーカーまがいの女性ファンもいた。

2002年の日韓大会のとき、トルシエが完全隔離された山の中の高級旅館を選らんだのに対して、ジーコは実にオープンな環境を選手たちに与えた。いかにもジーコらしいといえばそれまでだが、このオープンさがチームに亀裂を生じさせる一因となることまでは、ジーコも考えが及ばなかっただろう。

ホテルの正面玄関をくぐり、左手にある螺旋階段を降りると選手たちのための食堂がある。地下といってもすぐ外が川沿いの道路なので、気持ちのいい光が差し込んでくる。
貸し切られたスペースに、大きなテーブルが3つ置かれている。誰かに指定されたわけでもなく、自然と仲のいいものがグループを作って席順は決まった。

一番さわがしいのは、小野伸二を中心とする黄金世代のグループのテーブルだ。稲本潤一高原直泰中田浩二といったワールドユース準優勝組はもちろん、ワールドユースには出ていないが浦和に入団して以来、小野と縁が深くなった79年生まれの坪井慶介もここにいる。日頃からプライベートでも遊ぶことがある仲だけに、このグループの結束は強い。

逆に一番おとなしいのは、遠藤保仁中村俊輔三都主アレサンドロといった選手たちのテーブルである。このチームにおいて、彼らの発言権はさほど大きな物でなく、のちにチームを分裂させるきっかけになったラインを上げる、下げるの大論争でも、彼らが誰かと衝突することはなかった。

そして、もうひとつはキャプテンの宮本恒靖を中心にした守備陣が集まったテーブルである。楢崎正剛福西崇史といった年齢が上の選手たちが多い。

日本の練習場はホテルから車で5分のところにあった。選手たちはそこでシャワーをすませているので、午前練習が終わってバスがホテルに横付けされると、そのままダイレクトに地下の食堂に向かう。
だが、その3つの輪の中に姿のない選手がひとりいた。

中田英寿である。
彼は練習から帰ってくると、ほとんどの場合、他の人たちが地下に降りていくのを横目にひとりで部屋に戻る。そして、他の選手が食べ終わるか、食べ終わらないかというタイミングで、食堂に姿を見せる。
一応、中田英寿の席は、宮本たちのテーブルの片隅にあったが、言うまでもなく"時差"があるのですでに宮本たちは食べ終わっているか、部屋に戻ってしまっている。
ホテルの食堂はビュッフェ形式だった。日本から来たシェフが作った料理が、底の浅いシルバーの受け皿に入れられている。ビュッフェに並んだ受け皿から、中田英寿はひとりで料理を選び、席に着く。誰と会話をすることもなく、ひとりで。そんなことが何度かあった。

中田英寿は孤立していた。