「敗因と」 第6章 --- 齟齬 --- P. 183〜

P. 183〜 (文:木崎 伸也)

それにしてもどうして、日本の選手たちほこれほどまでに意見がぶつかり合ったのだろうか。2002年のワールドカップでは、当時監督だったフィリップ・トルシエが「ラインを上げろ」と指示していたにもかかわらず、初戦のべルギー戦で2失点したことを反省材料にして、宮本、中田浩二松田直樹の3人は自分たちで話し合ってDFラインを下げることを決断した。日本は決勝トーナメントの1回戦でトルコに負けてしまったものの、もし3人がトルシエの戦術にこだわっていたら、グループリーグで負けてしまった可能性もある。
4年前は自分たちで話し合ってうまくいったのに、今回は自分たちで話し合ったことでチームが分裂してしまった。

4年間の記憶を遡るようにして、中田浩二は言った。
「ベルギー戦では、上げることばかりに集中してたんですよ。特にツネさんは後半の途中から入ってきて。2点目なんか誰もプレスに行ってないのに、ツネさんが上げようとして2列目から走ってこられた。あのとき俺は見えてたんですよ、2列目からきてるのが。オフサイドは絶対に無理だから、やべえ戻らなきゃって思って、戻ったんだけど、追いつかなかった」

ベルギー戦の翌日、宮本、松田と3人でラインの高さについてじっくりと意見をぶつけ合った。練習は完全非公開なので、雑音に惑わされることなく、ピッチの上で納得いくまで話し合える。
中田浩二は宮本に伝えた。
「日本のサッカーは研究されていて、どんどん2列目から飛び出してくる。ベルギーがやってくるんだから、他もやってくる。無理して上げるのはよそう」
松田も同じことを考えており、3人の意見はすぐに一致した。

「無理して上げるんじゃなくて、1個クリアできたら上げようってことになったんです,そこまで混乱することもなかったですね。チーム全体としての守備の基礎はできているので、最終ラインの3人だけが修正すれば良かった。前に負担がかかるわけでもないし。ボーンってクリアしたら上げるけど、無埋に上げるのだけは止めようという話だった」

トルシエ時代には、守備の基礎があった。たとえば、ボールを蹴られそうになったら、5メートル下がるということを繰り返し練習し、ロングボールに対しては、フラット3のうち1人が競って2人がカバーするという戦術も徹底してやっていた。
みんなで話をするうえで、基礎があるのとないのとでは、大きな違いが出てくる。土台ができあがっていれば、あとは細部をすこしいじるだけでよかったのかもしれない。それに対してドイツ・ワールドカップのチームは、話し合わなければならない範囲があまりにも広すぎた。

「今回は、DFと中盤とFWの関係だから、難しいといえば難しいんですよ。そこの幅が長いじゃないですか」
中田浩二は、前と後ろのポジションに、国内組と海外組が分かれてしまったことも、マイナスに作用したと感じた。
「あんまり国内組、海外組って使いたくないんだけど……。でも、求めているサッカーは違うと思いました。それが今回は、攻撃と守備できれいに分かれちゃったから。たとえば高原はヨーロッパのDFに慣れてるから、味方のDFにもそうしてほしいわけだし。でも、日本のDFからしたら、FWはもうちょっとボールを持って時間をかけてやってくれよ、って思う。そのへんのボタンの微妙な掛け違いかな」

中田浩二は20O5年1月に鹿島アントラーズからフランスのマルセイユに移籍した。図らずも国内組と呼ばれる立場から、海外組と呼ばれる立場に変わったのである。それだけに、両者の間にある考え方の違いを身をもってわかっていた。

柳沢は2006年1月に日本に戻ったものの、イタリアで2年半プレーしていた。高原はドイツで、中村俊輔はイタリアとスコットランドで、中田英寿はイタリアとイングランドでプレーしてきた。3-5-2の布陣で言えば、攻撃の選手全員がヨーロッパでプレーした経験を持っている。それに対して3バックと守備的MFの福西は、ヨーロッパでの経験はない。
前と後ろで「経験」という線引きが存在した、と中田浩二は考えている。
「ヨーロッパに来てまず気づいたのは、FWだけじゃなくDFも前に運ぶということ。あと一対一の考え方が違う。一対一はその2人だけの勝負っていう考え方をする。カバーリングはしない。でも、日本は組織でしっかり守って、っていう感じでしょ。そのへんでDFライン+福さん(福西)+ヒデさんっていう組み合わせでいうと、ヒデさんはもともとボランチの選手じゃないから、福さんにすごい負担がかかってたと思う。ヒデさんがどんどん飛び出してたからね。でも、ヨーロッパで言ったらそれが普通なんですよ」

トルシエのやり方をすべて肯定するつもりはないが、ジーコのやり方はあまりにもトルシエと正反対だった。トルシエの基礎工事の上にジーコの攻撃サッカーを上乗せさせられれば良かったが、トルシエ時代はほぼひとつだった日本人選手の価値観が多様化したことも重なり、2002年と2006年のチームは全く別物になってしまった。

食事会の翌日、日本はクロアチア戦に向けて守備練習をしていた。
ハーフコートの片側に、相手FWを想定して小さなゴールを2つ置く。サブ組はボールを回して、その2つのゴールにボールを入れれば勝ち。一方のレギュラー組は、それを阻止する、という練習だ。レギュラー組はできるだけコースを消しながら、ボールにプレッシャーをかけて、高い位置でボールを取らなければいけない。

だが、なぜか選手の身体が重い。なかなか意思統一ができず、選手の動きも落ちていった。
ジーコ監督は、就任して以来、初めて選手たちに激昂した。
「まったく意欲が感じられない。何のためにこの練習をしているのかわかっているのか! 草サッカーの世界大会に来ているんじゃないんだ。プロとして、国をかけてやってるんだ!」
そばにいた鈴木國弘通訳は、こう振り返る。
「チームがバラバラになっちゃっているというかね…。意欲がないわけじゃないんですよ。選手があまりにも守備のやり方をどうしようか、どうしようかという議論で疲れちゃっていて。それをジーコが感じたんで、練習を止めて怒ったんです」
ワールドカップという特殊な緊張状態で、答の見つからない論争が起こり、選手は自分の立ち位置すら見失いかけていた。

「オレたちは引いて、ボールを取りたい」
「前でとった方がもっとチャンスができる。ラインを上げてくれ」
「前から行ってくれないと、上げれない」
「いや、上げてくれ」

中澤はどうにかしようと最後までもがき、相手の意見を聞こうとしたひとりである。しかし、ワールドカップという短期間の大会では、一度できてしまった流れに抗うことはできなかった。 複雑な記憶の中から、彼は辛そうに言葉を搾り出した。
「いろいろ意見は出るんですよ。議論するんですけど、それの答が出ない。それとこれを足したイコールは何って? でも、どうしても答は出てこない。結局、中途半端なままだから、ゲーム中も、意思統一は難しい感じがしました。もう最後は、後ろはこうやって守りたいって、前に伝えるしかなかったんです。誰の答に賛同するのかって言うよりも、それ(DFライン)の答を自分の中で勝手に決めて、伝えるしかないっていう…。まあこれは僕の意見ですけど、ある程度ラインを決めて、前から追えなかったら下げる、追えてたら上げる。そのように前もって決めておくと、もう少し迷わずできるのかな、っていうのはあったんですけど……」

ラインを上げてほしいという中田英寿の意見もよく分かったが、中澤には自分が今まで積み重ねてきたものの延長線上にワールドカップがあるという思いもある。それを仲間にうまく伝えられなかったことが、いま、残念でならない。

「ワールドカップを経験している選手と、経験してない選手がいるなかで、そこに意識の違いがあったのかもしれません。これまでワールドカップに出てない選手には、ワールドカップをどのように戦えばいいのかわからない部分もありますよね。多分、ヒデさんからしたら、いろいろ経験豊富だから「こういうふうにやったほうがいいぞ」というアドバイスだったんだと思う。だけど、僕たちワールドカップを経験していない選手にとっては、やっぱり本質は難しいですよ。いま考えれば「俺はこうやって戦ってきたんだ。アジアカップにしろ何にしろ、こうやって戦ってきたんだ」とか、きちんとコミュニケーションを取れば良かったのかもしれない」

最後には意見をすることさえ、許されない雰囲気になったと、ある選手は振り返る。
「もうグチャグチャな感じでした。なにか言うと、怒られる。怒られるというか、お前が言うなよ、というような空気がありました。『もっとこうしたほうが、僕らは紅白戦で相手をしていてイヤだよ』と言ったんです。でも、「だから何?」みたいな空気が流れて……。はっきり言ってサブ組のほうがまとまってましたね。チームが23人で、ぱっくり割れてた」

互いに主張するだけで、譲り合おうとしない。いくら話し合っても決着はつかないことに嫌気がさし、聞いているふりをすることでやり過ごす選手もでてきた。
ミーティングが終わって部屋に戻るとき、中田浩二はヒデに問いかけた。
「こんなんでいいの?このまま終わっていいの?」
クロアチア戦の前日、ジーコの我慢も限界に達していた。

二ュルンベルクのフランケン・シュタディオンで最後の練習をやる直前、ドレッシングルームからスタッフを追い出し、狭い部屋の中に選手を集めた,ジーコはうなるようにして言った。
「船頭は私だ……。私が全部責任を持つ,私の指示通りやってくれ」
ジーコが選んだのは、宮本たちの意見だった。
「柑手ボールになったとき、一回全部引け。2トップはハーフウェイラインのセンターサークルの近くまで引け。オーストラリア戦と、同じ轍をふみたくない。そこから呼吸を整えろ。相手に繋がれたってかまわない。回させとけ。相手がヤナギのところまで入ってきたところで守備を始めろ」

試合前日の日本代表は、セットプレーの確認とミニゲームをやって終わることがパターンとなっていた。勝負の前日にじたばたしても混乱を招くだけだ、いままで指揮官はそう考えていた。
しかし、このクロアチア戦の前日に限っては、ジーコは就任して以来、初めてフォーメーション練習を始めた。マークの受け渡しの仕方、プレスのかけ方。
4年間のツケを、たった1日でとりかえそうかというように。
選手としてワールドカップに3回出場し、98年大会ではセレソンのテクニカルディレクターとしてべンチに座ったジーコでさえも、平常心を失っていた。
混乱することを通り越して、ただ悲しかった、とある選手は振り返る。
「どうしてジーコは、最後の最後でやり方を変えたんでしょうか。それだけはいまだに納得がいかないんです」

DFライン云々の問題ではなくなっていた。互いに信頼できず、助け合えず、譲り合うこともできない。鹿島アントラーズ時代からジーコを知るものとして、中田浩二はそれが残念でならなかった。
「余裕がなかったのかなって。試合の中で意見を出しあっても、譲り合いみたいなものがなかった。ジーコにもある程度の形ってものがあるじゃないですか。そこをうまくみんなで理解してやるべきだったのに、ワールドカップではできなかった。ほんと前と後ろで意見が合わず……。そんなにDFラインが低かったと思わないし、前もキープしている時間帯はキープしてたと思うんですよ。ただ、それがちょっとうまくいかないから、FWは後ろに文句を言うし。DFは下がりすぎってことに敏感になり過ぎて。それを見て攻撃陣が、また言い過ぎる。そのへんなんじゃないかな……」

もはや敵はクロアチアでも、ブラジルでもない。
自分たちのなかにあった。