「敗因と」 第7章 --- 消極 --- P. 194〜

P. 194〜 (文:戸塚 啓)

フランク・デ・ブリークケレという人物をご存じだろうか。
オランダ語、フランス語、英語、ドイツ語を操るこのべルギー人は、首都ブリュッセルから南西へ1時間ほど行ったところにあるアウデナールデという小さな街に住んでいる。テニスと旅行が趣味という彼は、大会期間中に40歳の誕生日を迎える幸せに恵まれた。 ジーコとその仲間たちが歩んできた4年間に、彼は重要な局面でかかわっている。

キックオフを目前に迎えた大一番の重みを、実況のアナウンサーはゆっくりとしたクロアチア語に込めた。テレビ画面は会場入りした日本の選手を映し出している。ハンディのカメラが、通路を歩くジーコをしつこく追いかけている。
《みなさん、こんにちは。イビチャ・オシム、チロ・ブラシェビッチ、シソ・クラッチャ、コスティマッツから試合についてのコメントをいただきました。『日本は前半からしっかり守ってくるので、ボールを奪ったらすぐに攻撃に移らないといけない』ということです。また、ドイツの新聞には『日本人は背が低い。背の高いDFはひとりしかいない』とありました。だから、そこを突かなければなりません。また、日本の前線はよく動くので、クロアチアのDFはしっかりついていくことが必要となってきます》

画面はスタジアムヘ切り替わった。両チームのサポーターが映し出される。アナウンサーは少しホッとした様子だった。

《両チームの応援が始まっていますが、クロアチアのファンのほうが多いですね:日本人のファンもたくさん足を運んでいるようですし、激しい応援です。『ブルーサムライ』、青(日本のファン)の熱狂的な応援に、赤(クロアチアのファン)も負けてはいません。クロアチアのファンの数は、日本のそれの倍はいるんじゃないでしょうか》

続いて両チームの前日までのトレーニングの様子が紹介される。きれいにつなげられたVTRは、クロアチア代表選手のインタビューへ移った。ヘルタ・ベルリンに所属する巨漢DFのヨジップ・シムニッチが、5日前の第1戦を振り返る。

《ブラジル戦では、始めのうちは緊張している選手がいました。ロナウジーニョアドリアーノロナウドと、ブラジルは有名な選手揃いですから、緊張するのも当然です。でも、ファンの応援がすごくて、助けられました。ブラジルには負けたけど、それは忘れて、次の試合に向けて一生懸命にやって勝つしかありません。日本の人たちには尊敬の念を抱いています。親切ですし、優しいですし。この試合は、簡単な試合にはなりません》

次に登場するのは、普通に考えればズラトコ・クラニチャール監督になるはずだ。しかしクロアチアのテレビ局には、監督の言葉よりも先に伝えなければならないことがあった。キャプテンの二コ・コバチが打ち明ける。
「ワールドカツブの開幕前に、9人もの選手がお腹を壊してしまった。私は大丈夫だったんだけど、彼らは熱を出して3日から5日ぐらい寝込んでいたよ。コンディションを取り戻すのに、誰もが時間がかかっていたんだ」

コンヂィションを確認するには、誰のコメントが必要なのか。クロアチアのテレビ局が選んだのは、チームドクターのゾラン・バヒティヤレビッチだった。恰幅のいい身体は、長身選手の多いチーム内でもひときわ目につく。

《選手はストレスが溜まっています。9人の選手がお腹を壊して、熱を出して、大変でした。ニコ・コバチはブラジルとの試合で右脇腹を痛めるケガをしましたが、いまは回復して日本戦には出場しますよ》
《どの選手のコンディションがいいですか?》と、インタビュアーが突っ込む。短髪と眼鏡が特徴的なチームドクターは、身体を少し後ろへ反らした。
《私はチームの健康状態を診ていますけど、選手を選ぶ権利はありません。その質問には答えられませんね》

ここでクラニチャールが登場した。
《世界のサッカーは、テクニックの面でもプレーのやり方の面でも、すごく進んできています。でも、クロアチアはいいサッカーをやることができています》

勝利が求められるゲームの直前のコメントとしては、少しばかり緊迫感に欠ける。テレビ局としては、もう少し具体的な話がほしいはずだ。日本のマスコミにも多弁だったクラニチャール監督からすると、いつもよりロ数も少ない。
ひょっとしたら彼は、自国のメディアに多くを語りたくなかったのかもしれない。元浦和レッズクロアチア代表歴のある、トミスラフ・マリッチが言う。

「ヨーロッパの予選を通過してからワールドカップ開幕までの間に、マスコミから痛烈な批判を受けたんだ。ブラジルからクロアチア国籍を取得したダ・シルバを代表に選ばなかったことで、マスコミは激怒した。ダ・シルバは素晴らしい選手だからね。さらに監督の息子がチームにいることも、批判の材料になった そういうことがあってチーム内に不要な緊張感が生まれてしまったんだ」

(中略)

《この試合は日本にとっても重要な試合ですので、アグレッシブに戦ってくるでしょう。ジーコ監督もそのように戦わせるはずです》

練習前のロッカールームに、ジーコの声が響いた。大会9日目の6月17日は、フランクフルト、カイザースラウテルン、ケルンの3会場でゲームが行われる。フランケン・シュタディオンのロッカールームにいる日本の選手たちは、まだユニホームに着替える必要はない。キックオフにはあと1日と2時間ほどある。

「俺が全部責任を持つから、指示どおりにやってくれ」
オーストラリア戦の後半に運動量が落ちたのは、前線からボールを追いかけ過ぎたことに原因があるとジーコは分析した。事前のスカウティングによれば、クロアチアはボールを回してくることが予想される。身体能力が高いのはオーストラリアと同じでも、攻撃のパターンは違う。

そうはいっても、日本より身長は高い。どこかで高さを生かしてくるだろう。同点で終盤を迎えれば、クロスボールを入れてくるかもしれない。いや、最後には絶対にクロスを連発してくるはずだ。それならば、前線からブレッシャーをかけるよりも、センターサークル付近まで一度下がったほうがいい。明日もまた15時キックオフで、暑さのなかでのゲームが予想されることを考えても、スタミナを無駄遣いしてはいけない。

何よりも選手間の主張はぶつかりあったままで結論に辿りつけていなかった。衝突する意見を収拾させるためにも、「ボールを失ったら、とにかくいったん引くんだ」という指示をジーコは選手たちに与えた。

練習後の記者会見では、日本のメディアが漂わせる悲観的な空気に正面から抵抗した。
「自分たちのサッカーが間違っているとは思わないので、オーストラリア戦後の5日間は精神的な部分に費やした。時間が足りないということはなかった。いまさら新しいことをやろうとは思わない。やるべきことは全部やってきた。クロアチアは強いチームだが、選手たちの気持ちは吹っ切れている。残された道は勝つか引き分けるかのふたつしかない。そうでなければグループリーグ敗退となる。選手たちとも確認したが、相手が誰であろうと自分たちのサッカーをするしかない。意気込みは感じられる。その気持ちがついていかなければ、悲惨な結果になってワールドカップが終わってしまう。気持ちが萎えてしまったら勝負にならない。昨日のアンゴラのように、人数が少なくなっても最後まであきらめず、引き分けて3試合目に望みをつなぐこともできる」

オーストラリア戦を欠場した加地亮は、通常どおりのメニューをこなしていた。風邪による体調不良が囁かれる中村俊輔も、グラウンドで元気な姿を見せていた。

「加地はケガの少ない選手だったが、ドイツとのテストマッチで悪質なタックルで大ケガをした。もうダメだろうと思うほどの症状だったが、びっくりするほどの情熱を持って、治療とリハビリを行った。その気持ちが大切だ。最高の舞台でブレーするのだという強い気持ちがあれば、どんな困難でも跳ね返せる。ダメだと思ったらダメだ。中村はオーストラリア戦で負傷したので、1、2日休養をとって治療した。そのあとには発熱があった。だが、今日は熱が下がっているので心配ない」

フォーメーションは3-5-2から4-4-2へ変更されていた。オーストラリア戦で両足がつってしまった坪井慶介がべンチに下がり、代わって小笠原満男がスタメンで起用されることになった。
「基本的な戦術は変わらない。ただし、チャンスはしっかり決める。ボールを失ったときには全員で守る。これをしっかりやれば、無駄な失点をせずに得点できると思っている。クロアチア戦でもそれを繰り返す」

クロアチアの印象にも触れたが、ジーコが強調したのは自分たちがいかに戦うのかだった。オーストラリアに負けても、選手への信頼は揺らいでいなかった。
「日本代表を率いてこれまで70試合を戦ってきたが、チャンスが作れなかった試合はほとんどない。しっかりと気持ちの入った試合では、決定的なチャンスを作ることができていた。負けた試合というのは、チャンスを生かせなかったときだ。決定機を作っているのにフィニッシュが悪いのが日本の課題だ。それが解消されれば怖いものはない」

(中略)

クラ二チャールは試合前のロッカールームで選手に確認をしていた。
「絶対に勝たなければならない。この試合で勝ち点3を取るんだ。ブラジルはオーストラリアに勝って、グループリーグ突破を決めるだろう。だから我々は今日、日本に勝って、オーストラリア戦を有利に迎えよう」

日本の先発メンバーには、180センチを超える選手が3人しかいなかった。 クロアチアの先発メンバーには、180センチに満たない選手がひとりしかいなかった。 高さは有効な手だてになるはずだが、クラニチャールはそうした指示を出さなかった。
「特別なことはしないぞ。いつものようにパスをつないでいくサッカーをしよう。ロングボールばかり狙うのではなく、ブラジル戦のように自分たちのサッカーをするんだ」
その代わりに、日本を攻略するための具体的な戦略を授けていた。控え選手のひとりだったユリカ・ブラニエスは、監督の言葉をよく覚えている。
「スルナに対して、三都主のウラを突けと指示した。三都主は攻撃的な選手だから、前に行く傾向があるから、スルナはそこを突いてクロスを上げろ、と」
ラニチャールは試合の数日前に、DVDセッションを開いている。日本のスカウティングだ。5月30日のドイツ戦や昨年のコンフェデレーションズカップを、ダイジェスト版にまとめたものだった。コーナーキックフリーキックなどのリスタートをどのように蹴るのかが、分かりやすく映像化されていた。「それからもうひとつ、対戦相手は分からないがテストマッチの映像もあった」とフラ二エスは記憶している。

「監督は『日本を侮るな』と言った。『とてもいいチームだ。日本を侮ってはいけない。日本の選手は前方から走り回ってくるぞ。中田英寿や高原など、ヨーロッパでブレーしている選手がたくさんいる』とね」

クラ二チャールは「日本のスピードに警戒しろ」と繰り返したが、ブラ二エスとチームメイトはどちらかと言えば楽観的だった。「もちろん簡単じゃないけど、勝つことはできるだろうな」と思っていたのはダリオ・シミッチである。イゴール・トゥドールは「このクループのなかじゃ、日本が一番弱いだろう」と考えていた。「ここで勝ち点3を取れば、オーストラリア戦は引き分けでも大丈夫だな」と、チームメイトと話をしていた。

気がかりは暑さだった。ブラ二エスが振り返る。
「みんな、天気が心配だったんだ。もし暑くなれば、日本のほうが有利になると思っていたから」