「敗因と」 第7章 --- 消極 --- P. 204〜

P. 204〜 (文:戸塚 啓)

腕時計が3時を指すのを待って、主審がホイッスルを鳴らした。
勢いよく動き出す選手たちの影が濃い。試合前の電光掲示板は気温25度、湿度37パーセントと伝えていたが、数十分前の情報がずいぶんと古いもののように感じられる日差しが、フィールドに照りつけていた。

(中略)

5分、宮本恒靖がへディングで跳ね返したボールが、右サイドのスペースヘ出る。DFを押し倒した柳沢敦がファウルをとられ、カウンターは成立しなかった。
クロアチアのテレビ解説者が、すぐに注意を促す。
《ここは柳沢がファウルをしてくれたからよかったですが、クロアチアはいまのような日本のカウンターを警戒しながら攻めなくては。日本はしっかり守ってカウンターをしてくるので、カウンターの芽はきちんと摘まなくてはなりません。そこでボールを奪えば、連続して攻撃できるのですから》

しかし、解説者はすぐにまた口を開かなければならなかった。バビッチが3人の選手に囲まれ、ボールを失ったのである。
《日本はこうやって、みんなでボールを取りにくるのです。そしてボールを取ると、その選手たちが素早く広がって攻撃を展開する。これは危険です》

ドイツのテレビ局RTLでは、リトバルスキーが日本のある選手に注目していた。
《希望が持てるのほ、いまボールを持っている加地です。右サイドで非常にうまくプレーできます。第1戦は怪我で休んでいましたが、彼は素晴らしい選手ですよ》

(中略)

試合開始から10分にして、リトバルスキーは日本の混乱を読み取っていた。のちに日本で行ったインタビューで彼はこう語っている。
「僕はピッチレベルではなく上から見ていた。上から見ていてもグチャグチャになっていて、誰がどこでプレーしているかわからない。ピッチに立っている選手はもっと分からないはずだ。とくに中盤がそうだった。チームとしてやるべきことができていなかったと思う」

(中略)

《両チームともにリスクを冒さないような戦いですね》
アナウンサーが言う。リトバルスキーが返答する。
《ボールを早い段階で前方に放り込み、ほとんど一対一の局面に入り込むことができません》
彼の不満は日本のMFへ向けられていた。
《中村も中田英寿もフリーな状態ではないために、自信がなく、逃げのパスばかりです。このようなプレーは、もっと年をとった人たちのものですよ,誰も前へ向かってボールを入れません。このようなプレーはつまらないし、これではゴールチャンスは生まれない》

リトバルスキーのトーンが変わったのは、18分の加地の突破だった。オフサイドラインぎりぎりで抜け出した加地のクロスは、背後を突かれたクロアチアの守備陣を慌てさせた。
《このほうがずっといいブレーですね。このシーンは彼のクオリティ、そのオフェンシブな能力を示すものです》

しばらく戦況を見つめていたクロアチアのテレビ局も、この場面には反応した。実況アナウンサーが声を張り上げる。
《左サイド(日本の右サイド)をケアしなければいけません。オシムが言っていたように 日本はサイドの攻撃が強いですから、気をつけなければいけません》

アナウンサーはもう、自国の選手に対する物足りなさを抑えきれなくなっている。
《日本はプレッシャーがきつくなるとボールを矢いますが、クロアチアはブレッシャーがきつくないところでもボールを失っているんじゃないですか》
解説者がなだめる。
《いやいや、日本がいつも自陣でばかりボールを持っているからですよ》
彼の意見はもっともだった。ほぼ同じ時間帯に、ドイツのアナウンサーはこう実況している。
《忍耐のいるゲームの様相を呈してきましたね。両チームともにリスクを冒しませんし、アイディアもほとんどなく、戦術面でのフォーメーションを守ることばかりで。まあ、相手のミスを待つということでしょうか》

このアナウンスは、数分後の出来事を見事に言い当てることになる。
クロアチアのGKスティペ・プレティコサのロングキックが、ワンバウンドしてぺナルティエリア左へさしかかる。バウンドしたポイントが三都主アレサンドロと宮本のほぼ中間だったためか、どちらも積極的に対応できていない。宮本がへティングでクリアしようとするが、正確に落下点へ入れずボールは後方へ流れてしまう。ブルショが反応する。追走する宮本と交錯する。青いユニホームの右足が、白いユニホームの左足に絡む。

リトバルスキーが即座に解説をした。
《宮本が一対一での競り合いでは十分な力を備えていないことが、ここでまた証明されました。とにかく愚かな行為です。自分の前に相手選手が割って入っているのですから。そうなれば、もうそれ以上突っかけたりすることはできないのに......》
主審がホイッスルを吹いた。ペナルティスポットを指す。PKだった。

キッカーのスルナは、日本にとっての中村俊輔のような存在である。クロアチアの選手たちは、すでに先制ゴールを奪ったような気分になっていた。キャプテンの二コ・コバチは言う。
「PKを得たとき、私たちのチームの数人はすでにゴールを確信して祝福していた」
だが、彼らは重大な過ちを犯したことに気づかされる。
ドイツのアナウンサーは絶叫した。

《スーパーセーブです! 前にも申し上げましたが、川口は決して大きなキーパーではありません。しかし、たった今、ゴールのスミへのシュートを左手で止めました!このプレーが日本の目を覚ますことにつながるに違いありません》

直後のコーナーキックを日本がしのぐと、リトバルスキーが実況に同意した。
《ときとして、問題になることがあるんです。FWがPKをもらって、いけると思った直後に失敗する。こうしたことで簡単に自信は揺らぎ始める。これをきっかけに日本が眼を覚まして、もっとアクティブになってくれればと思いますね》
日本のべンチも沸き上がった。「さすがだ!」と土肥洋一は思った。
「GKコーチのカンタレリが僕ら3人を試合前に集めて、スカウティングの和田(一郎)さんと一緒に、相手の特徴のビデオを観ていたんです。この選手はこうだから、と。こっちに蹴ることが多いとか。だからさすがだ、と思ったんですよ」
ところが、川口はミーティングのことを忘れていたという。それを聞いた土肥は「おいおい」と苦笑したが、それでも止めてしまう川口に改めて感服した。
「べンチは盛り上がりましたよ。アジアカップじゃないですけど。あのときも、まさか、まさか、で止めまくったじゃないですか。本当にピンチのときにはとんでもないことをやってくれますからね、ヨシカツは」
流れが変わった。さあ、ここからだ 土肥はチームメイトの変化に期待した。
だが、試合のテンポはいっこうに上がっていかない。
リトバルスキーの解説が厳しくなる。

中田英寿からいいボールが入りました。うまくスペースへ出して、そこでクロスだったのですが、ゴールキーパーしかいませんでした。高原はFWとしてもっと早く詰めていないといけませんでしたね。ちょっと遅すぎる。もうすぐ30分がたちますが、日本のFWはここまでひとつもいいアクションを起こせていません》

29分、パスカットした三都主アレサンドロが左サイドの小笠原へはたく。左コーナー付近でボールを収めた小笠原は、右足にボールを持ち直すとすぐにクロスを入れた。ゴール前へ詰めていた柳沢と高原の頭上を越えたボールは、DFにヘディングでクリアされてしまう。

このプレーが、リトバルスキーには我慢ならない。
《このようなシーンこそが私の言いたい場面で、彼は一対一での勝負に持っていっても良かったんじゃないでしょうか。Jリーグではそうしているのに、この場ではそのようなブレーができないんですよ。クロアチアのほうが、一対一での勝負をきちんとやっています》

クロアチアのテレビ局はここで、守備陣の混乱を指摘していた。バビッチがクリアした場面のスロー再生を観ながら、解説者がコメントする。
《バビッチはチームメイトからいろいろと批判されています。というのも、彼はいるべき場所にいないからです。彼がポジショニングをうまく考えないと、試合をうまく運べません》

(中略)

ふたつのテレビ局が、前半のうちにゴールシーンを伝えることはなかった。