「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.94 〜

P.94 〜 (文:木崎 伸也)

中田英寿と他の選手たち------とくに黄金世代------との間に溝ができたきっかけは、怪我による長期離脱にあった。

(中略)

そんなとき、2005年3月、ワールドカップアジア最終予選のイラン戦という大一番で、中田英寿が代表に復帰することが決まった。
本来であれば喜ばしいことなのだが、すでにチームが完成しつつあることもあって、「ヒデが帰ってきたら、ジーコはどうするんだろう?」と心配する選手も少なくなかった。
話題の中心は、システムのことだった。

この頃になると、すでに選手たちはジーコに戦術を徹底させる意志がないことを悟っていた。
どこからボールを取るか、どうやって相手を追い込むかといったヨーロッパの概念からすると基礎中の基礎である戦術的な指示をジーコは全くしようとしない。それがブラジル流なのかもしれないし、ただ日本の選手が受け見過ぎるからかもしれないが、選手は戸惑うばかりだった。

ワールドカップ最終予選の初戦となった北朝鮮との試合後、ある選手はヤケクソになってこうもらした。
ジーコじゃ、やばいよ」

そんななかで選手たちの拠り所になったのが、3−5−2というシステムだった。3バックは2人のセンターバックの後ろに、スイーパーが控えている古典的なシステムだ。どうしてもラインは低めになってしまう。だが、全体をコンパクトにすることを犠牲にする代わりに、トップ下(中村)、両ウィングバック(加地、三都主)、ダブルボランチ(小野、福西)といように、中盤の5人の選手たちの役割が非常にはっきりするのである。

(中略)

選手たちからすれば、ワールドカップ最終予選のそれもアウェーのイラン戦という大一番では、当然、3−5−2で戦うだろうと思っていた。中田英寿の離脱以降はほとんどが3−5−2だったし、その間に小野や稲本といった中心選手がいなくても3バックがメインだった。
しかし、2005年3月、イラン戦で中田英寿が戻ってくると、ジーコはシステムを4−4−2に変更することを決断したのである。

選手は激怒した。
「なんで4バックに戻すんだ。ヒデを出すためだけに、システムを変えるっていうのか?」
もし3−5−2のままなら、トップ下に中村、ダブルボランチには小野と福西が入るので、ヒデにはポジションがない。ヒデを出場させるためには、もうひとつMFのポジションを作らなければいけない。だから、4バックになった--------。

中田英寿ジーコがイタリア語で仲良く話しているのを見るたびに「えこひいきじゃないか」と勘ぐる選手たちが出てきた。

(中略)

結局、日本はイラン戦で一度は追いつきながらも、1−2で負けてしまう。イランに負けたのはヒデが戻ってきたから。チームの中にそういう空気が漂いはじめた。
イラン戦の5日後に行われたバーレーン戦では、宮本と中田英寿からの直訴もあってジーコは慌ててシステムを3−5−2に戻したが、今度は中田を慣れないボランチにコンバートしてまで先発させた。
中田英寿に対して、否定的な空気が広がっていった。

シュート練習で、鋭いパスが来る。パスのスピードは受け手の気持ちを逆なでするほど早く、さらに目の前でショートバウンドする。まわりで見ているチームメイトはささやいた。
「また”キラーパス”がきたな」
相手のDFを殺すのではなく、仲間を殺すパス----------。
チームでは”ヒデ不要論”が噴出し、何人かの選手は「ヒデは終わった」とささやきあった。