「敗因と」 第3章 --- 確執 --- P.92 〜 P.94

P.92 〜 (文:木崎 伸也)

日本代表が宿泊していたボンの4つ星ホテル『ヒルトン』は、ライン川沿いの見晴らしのいい場所にあった。
窓を開ければ左手にはケルンのテレビ塔が見え、右手にはジーベンゲビルゲと呼ばれる標高500メートル級の山並みが広がる。

(中略)

日本サッカー協会にとって誤算だったのは、この4つ星ホテルには客室数が252もあり、ワールドカップ期間中に貸し切ることができなかったことだ。ドイツ人のビジネスマンはもちろん、情報を聞きつけた日本の女性ファンが平然と泊まり込み、練習を見に来たついでにホテル内に侵入するストーカーまがいの女性ファンもいた。

2002年の日韓大会のとき、トルシエが完全隔離された山の中の高級旅館を選らんだのに対して、ジーコは実にオープンな環境を選手たちに与えた。いかにもジーコらしいといえばそれまでだが、このオープンさがチームに亀裂を生じさせる一因となることまでは、ジーコも考えが及ばなかっただろう。

ホテルの正面玄関をくぐり、左手にある螺旋階段を降りると選手たちのための食堂がある。地下といってもすぐ外が川沿いの道路なので、気持ちのいい光が差し込んでくる。
貸し切られたスペースに、大きなテーブルが3つ置かれている。誰かに指定されたわけでもなく、自然と仲のいいものがグループを作って席順は決まった。

一番さわがしいのは、小野伸二を中心とする黄金世代のグループのテーブルだ。稲本潤一高原直泰中田浩二といったワールドユース準優勝組はもちろん、ワールドユースには出ていないが浦和に入団して以来、小野と縁が深くなった79年生まれの坪井慶介もここにいる。日頃からプライベートでも遊ぶことがある仲だけに、このグループの結束は強い。

逆に一番おとなしいのは、遠藤保仁中村俊輔三都主アレサンドロといった選手たちのテーブルである。このチームにおいて、彼らの発言権はさほど大きな物でなく、のちにチームを分裂させるきっかけになったラインを上げる、下げるの大論争でも、彼らが誰かと衝突することはなかった。

そして、もうひとつはキャプテンの宮本恒靖を中心にした守備陣が集まったテーブルである。楢崎正剛福西崇史といった年齢が上の選手たちが多い。

日本の練習場はホテルから車で5分のところにあった。選手たちはそこでシャワーをすませているので、午前練習が終わってバスがホテルに横付けされると、そのままダイレクトに地下の食堂に向かう。
だが、その3つの輪の中に姿のない選手がひとりいた。

中田英寿である。
彼は練習から帰ってくると、ほとんどの場合、他の人たちが地下に降りていくのを横目にひとりで部屋に戻る。そして、他の選手が食べ終わるか、食べ終わらないかというタイミングで、食堂に姿を見せる。
一応、中田英寿の席は、宮本たちのテーブルの片隅にあったが、言うまでもなく"時差"があるのですでに宮本たちは食べ終わっているか、部屋に戻ってしまっている。
ホテルの食堂はビュッフェ形式だった。日本から来たシェフが作った料理が、底の浅いシルバーの受け皿に入れられている。ビュッフェに並んだ受け皿から、中田英寿はひとりで料理を選び、席に着く。誰と会話をすることもなく、ひとりで。そんなことが何度かあった。

中田英寿は孤立していた。