「敗因と」 第5章 --- 晩餐 --- P. 160〜

P. 160〜 (文:木崎 伸也)

6月22日のブラジル戦に負けた翌日、小野伸二中田英寿のふたりが『かみじょう』にやってきた。ブラジル戦の翌日に日本代表は解散になり、ほとんどの選手がその日のうちに帰国の途についたが、小野と中田の2人だけはボンに残っていたのである。

午後6時、まずは小野が母親、娘、弟とともに店にやってきた。今まではジャージ姿しか見たことがなかったので、短パンにサンダルというラフな服装がやけに新鮮に映った。
小野は店の奥にある席に向かおうとしたが、すでにそこは「予約」というプラスチックの小さな板が置かれている。

「大将、ここ予約が入ってるんだね。誰?」
「8時から、中田くんと事務所の人たち」
「えー!ヒデ来るの?」

こんな短いやりとりにも、代表内の人間関係が垣間見れるようで、食事会に立ち会った者としては意外だった。
小野は中田英寿が来る前に店を出た。

午後8時、入れ替わるようにして、中田が暖簾をくぐった。この日は白い絹のシャツに黄色いスカーフを首にまき、夜なのに黄色のフレームのサングラスをしている。

「まるで雑誌から飛び出てきたような格好でしたよ。昨日ピッチで大泣きしたのが嘘のように、晴れ晴れとした笑顔をしていて」

中田は自分が食べたいものを注文するでもなく、まわりにどんどん食べるのを勧めた。アルコールも手伝って、だんだんと上機嫌になっていく。
「大将!こっちに来ていっしょに飲もうよ」
席へ向かうと、そこには同じ事務所に所属している前園真聖がいた。

上條は前園に訊いた。
「前園くんさあ、マスコミが報道する中田くんと、今の中田くんはどっちが本当なのよ」

実はこの日、上條は不思議な光景を目にしていた。
日本代表の大ファンで、今大会も日本戦を3試合とも観たという日本人の年配の夫婦がカウンターに座っていた。彼らは店に入ってきた中田一行に気がづき、「握手してください」と呼びかけた。
しかし、中田英寿は何も見えてないかのように無視をした。

上條はこれまでに中村や遠藤が快くサインに応じている姿を見ているだけに、驚かされた。あの冷たい彼と、自分の知っている明るい彼は、どっちが本当なのか?
前園は答えた。
「今、話しているヒデが本当だよ」

打ち上げが盛り上がってくると、中田英寿は従業員に頼まれて、いたるところにサインをしまくった。エプロン、ワイシャツの肩、サムライブルーの旗に。
そして、「大将、いっしょに写真を撮ろうよ」と肩を組んできてくれた。
上條は素顔の中田英寿に触れられた気がした。

「彼は自分の大切な何かを守るために、外の世界からは距離を置いているんだと、いまは思います。決して悪気があるわけじゃない」

ただ、ちょっとした会話の中で、プライベートでは気さくに話せる若者が、自分の職業であるサッカーの話になると複雑な一面を見せることがある。
上條はふと「食事会のときは、ここに宮本くんが座っていたよね」と話を振ってみた。
中田英寿は冗談っぽく笑った。
「あいつはダメ」

食事会でふたりが仲良く話していたのを見ているし、別に人間的に嫌いだといっているわけでもなさそうだ。いったい何がダメだというのか。
そのときは発言の真意を測りかねたが、後日、日本で放送された中田の引退特番をビデオで見て合点した。
サッカーのことで、意見がぶつかり合っていたんだ、と。

あの食事会から3ヶ月後。
もうボンの街に、日本代表の青いユニホームを着たサポーターはいない。サポーターと報道陣のための情報基地が置かれていたG-JAMPSはもとの美術館に戻り、日本代表のために約4千万円をかけて改築された練習場も今までどおり市民がスポーツを楽しむ場になっている。

『かみじょう』の店内に、もう日の丸は飾ってなかった。
「いまだにわざわざ日の丸を見にくるお客さんもいるんですけどね。いろんな報道で誤解を生んでしまいましたから・・・・・・」

『かみじょう』は選手だけでなく、報道陣の癒しの場にもなっていたので、編集者やテレビ局の人が大会終了後にたくさんの雑誌やビデオテープを送ってきてくれた。自分が目撃した食事会はあれほどまとまっていたというのに、なぜ不仲説が流れているのか不思議に思い、雑誌を読み漁り、ビデオテープの映像を記憶に留めた。

「少しは問題があったんですかねえ。実際どうだったんでしょうか・・・・・・」

上條は遠くを見つめながら言った。
「もっと早くうちに来てくれれば、良かったんじゃないかなあ。雰囲気がダメになってから来るっていうんじゃ、遅いですよね。負けてから、後がなくなってから来るのではなく、余裕があるうちに来てほしかった。もし次のワールドカップに出られたら、悪い状況になってから何かをするのではなく、もっと早い時期にあの時のようにまとまることのできる場を設けてほしいと思います」

今回のワールドカップにおいて他国の代表に比べて特殊だったのは、あまりにも選手が公にさらされ過ぎていたことだった。すべての練習が公開され、同じホテルに一般客が泊まり、選手だけのプライベートな空間といえるのはそれぞれの部屋くらいだった。

一応、ホテルの地下にリラックスルームは置かれていたが、ほとんど機能していなかったとある選手は告白する。
「リラックスルームにはビデオとかクッキーとかコーヒーが置いてあって、対戦相手のビデオが流れるんです。誰か来るかなと思って待ってるんですけど、食事を終えてから寝るまで誰も姿を見せない。ツネさんは対戦相手を研究しまくってたから、よく来てましたけど」

そんななか、この日本食レストランだけが、チームとしてリラックスできた唯一の場ではなかったのではないか。
もっと早く来ていれば、結果は違ったかもしれない。しかし、もうこのとき、日本代表の時計の歯車は巻き戻すことができないほどにひび割れていたのである。