「敗因と」 第2章 --- 団結 --- P.84 〜

P.84 〜 (文:戸塚 啓)

ドイツワールドカップの期間中、三浦は宮本に電話をかけている。確かブラジル戦の前だったはずだ。
「言葉には感情が出るでしょう?ツネは賢い人間だから、人の悪口とかは一切言わない。言わないけど声のトーンとかで分かる。ああ、うまくいってないんだなあ、って感じた」

「ヒデとかがね、彼も自分を犠牲にしながらだけど、仲良し集団じゃダメみたいなことを言ってたでしょう。それはね、たぶんみんなわかってるんですよ。分かってるんだけど、僕は厳しさの中で戦うよりも、、もっと、グっとスクラムを組むじゃないけど、みんなで戦うほうが、日本代表って言うのはそういうチームのほうが良いんじゃないかと」

「みんながひとつの目標に向かって同じ方向を目指して『よっしゃ、行くぞ!』ってなったときにはね、たとえば誰かがかわされても、事前に万が一抜かれたらってことを考えるものなんですよ。そうしたら身体が30センチそっちへ動いてるもの。ただ、その人との関係があまりうまくいっていない、好きじゃないっていう感じだと、『お前、取れよ!』みたいなことになる。逆に30センチ離れたり。そういうことって、けっこうあるんですよ。逆にすごい仲のいい奴がボールを取られたら、奪ったろう、取り返したろうって思う。削られたら『ふざけんな!』って相手チームのところに行く。試合中は仲良しとか、、仲が悪いとかは関係ないって言われるんですけど、身体の反応ってそういうところが出るんですよ。絶対にそうなんですよ。嫌いな者同士でうまくいく、っていう世界じゃないでしょう」

(中略)

ブラジル戦のあの場面が、藤田には違和感として残った。

「ヒデが最後にあそこでごろんとしていたときに、みんなが何で行かなかったの?行ってもらえないヒデがいたの?っていうのがすごく頭に残っているんです・・・・・・。ヒデもみんなから来てもらえない選手になっちゃったのって。状況は分からないけど、誰かがいるのに行かないって言うのは違和感がある。しかも、1分や2分じゃないでしょう?みんな勝ちたいためにやっていたはずが、何かの掛け違いがあったのかなあ、と」

(中略)

いまでも土肥は、あのチームには大いなるポテンシャルがあったと思っている。完成形へもっていければ、もっと上へいけたはずだと。

「あのメンバーで上に行けないわけはないと思います。あのメンバーで行けなかったことが逆におかしい、と僕は思いますよ。ベスト8?くじ運というか、相手もあるので何とも言えないですけれど、行ける可能性はあったんじゃないかな。それだけに、ホント、ショックはかなり大きかったですね。腑抜けじゃないですけど、脱力感のほうが強かった」

ドイツ・ワールドカップの日本代表には、30歳以上の選手が3人しかいなかった。
3人ともGKだった。
フィールドプレーヤーに30歳以上の選手がひとりもいないのは32カ国で日本だけだった。

「敗因と」 第2章 --- 団結 --- P.78 〜

P.78 〜 (文:戸塚 啓)

時間でしょうか、と土肥洋一は言った。

ドイツ・ワールドカップの日本代表に一体感をもたらすには何が必要だったのか、という質問への答えである。

ジーコが監督になってやってきた中で、海外組、国内組という感じで言われてきて。アジアカップとかは国内組中心でいって、優勝して、自信をもってるわけですよ。でも、海外組が帰ってくると試合に出る。どこかで不平、不満があがる。そういう意味ではワールドカップもどうなるか分からない。やっぱり(海外組が)出ちゃうという状態が、良くなかったんじゃないかなと。ずっと同じメンバーでやってきて、そのメンバーで行きますよというのであれば、出られない選手も納得するのかもしれないですけど、帰ってきて今までの自分のポジションに他の選手が出るという・・・・・・そういった面ではひとつになっていなかったと思いますし。もっと時間が必要だったんじゃないかな、と」

しかし、レギュラーがいて控えがいるというのは、どこのチームも同じである。日本代表だけが特殊な状況に置かれていたわけではない。

「確かに甘いと言われれば甘いかもしれないですけど、そこで監督がうまく起用していれば、ちょっとは違ったんじゃないかな。やっぱり、ヒデ(中田英寿)とシュン(中村俊輔)は最後まで代えなかったですよね。そういったところで、どうせ代わらないんでしょう、という選手もいたことはいたし。たとえば紅白戦で調子が良ければ、レギュラー組に使ってやればまた変わっていたと思うんです。ブラジル人特有なのかもしれないですけど、固定メンバーでずっとやっていきましたから・・・・・・。そういうところをみんなは理解できなかったのかな」

自分が感じたことを誤解なく伝えるには、どんな表現がふさわしいのだろうか。土肥は懸命に言葉を探しているようだった。

「一体感があったか、ないかといえば、僕もベンチで見ていて・・・・・・ない、と思います。でもブラジル戦でタマ(玉田圭司)が1点入れた瞬間は、みんなに火がついた。ようやく。これ、いけるんじゃないか、と。そのあとも巻が追いかけて、スライディングしてギリギリのプレーをみせたり。そういうことだと思うんですよ。それができるのにやらなかったのも敗因だと思います」

柔らかい表現を心がけても、本心だけは曲げられない。隠せない。

「一体感がなかったというか、チームとしてなってなかった、ってことなんです。それがひとつのチームにしようとしたトルシエジーコの違いなのかな、とも思います。指令塔はひとりでいい、とか。ヒデとシュンだったら、ヒデをボランチに置いてもかぶることがありますし。シュンも自分にボールを集めて欲しい。タカ(高原直泰)もくれ、と。みんなそれぞれ、個々のあれが強すぎて」

あれとは「主張」とか「言い分」に置き換えられるだろう。

「ここにボールが来たらこう動くとか、周りのことを考えないで、自分中心だったのかな、みんなが。指示じゃなくて文句になってたというのも事実じゃないですか。『上がれよ』とか。『上がってくれ』じゃなくて。そのちょっとした言い方が変われば、もっとうまくいったんじゃないかな。自分が試合に出られればいい、という選手は少なからずいたと思います。チームの勝利は考えてるんですけど、自分が出て、っていうのが強い選手のほうが多かったのかな、と。試合に出ていない選手のなかにも、ベンチだから関係ないという選手もいたと思いますし。勝つために何をやるかっていうところで、ひとつになってない。オーストラリアであれば、イタリアを潰してやろう、大金星をあげてやろうと。俺たちの実力を見せようよ、というところで全員がひとつになってたんじゃないですかね」

「そういったものは、一切感じられなかったです」

(中略)

「試合中のベンチにいて、僕とナラは必死になって応援してました。ブラジル戦で出場停止だったツ(宮本恒靖)も、自分もピッチに入っているような気持ちですごい応援してましたね。『あっ、いってるぞ!』とか。でも、ぼうっと見てたり、『あーあ』とか言ってる選手もいて。ホントに歯がゆかったですね。ただ、それが現状だった。練習では普通に仲がいいんですけど、チームが分けられた瞬間に『あ、また俺はこっちなのか』と言う選手もいたし」

「いままで代表に選ばれてきて、試合に出る、出ないは関係なしに、代表でやってきたものが、この3試合で終わっちゃった?っていうような。えっ?っっていう。辛い練習−−−−近くからシュートを打たれるのを止めたり、練習が終わってやっと上がれると思ったら、はい、もうちょっとやろうと言われたり。そういう苦しい中でやってきて、必死でやってきてここまでしがみついて、食らいついてきたのに、この3試合で・・・・・・これで終わり?これで?っていう感じで。何もやってないじゃん、みんなまだ、って。何をしたの?この3試合でっていう気持ちはすごくありますね」

「敗因と」 第2章 --- 団結 --- P.73 〜

P.73 〜 (文:戸塚 啓)

キリンカップでペルーとUAEに連敗したショックは、事前合宿地のアブダビへ移動してもチーム内に沈殿していた。
全員が揃ったところで、宮本が切り出した。

「じゃあ、アツさん、お願いします」

レギュラーではない自分が一番最初に発言するのは予想外だったが、求められればすぐに意見をする準備はできていた。最終予選バーレーンとのアウェーゲームは、3日後に迫っている。ためらいはなかった。

「いい選手だから海外へ行くわけじゃないですか?だけど、紅白戦になるとBチームが強いんですよ。もちろんBチームは失うものがないんだけど、何かこう、レギュラーのAチームは気を遣ってるんですよ。お互いにいい選手だから、あんまり言わない。それじゃあ、うまくいくわけがないでしょう。海外の選手を使うことについて、いろんな意見があったけど、僕に言わせれば海外へ行く実力があるんだから代表で試合に出るのは当然だし、そこでディスカッションをしてやれば、鬼に金棒じゃないですか。実力がある人たちのなかでそういうことができれば一番いいでしょう。それが、できていなかった」

チームメイトの視線が集中する。三浦が口を開いた。

「僕自身はこの大会が最後のワールドカップだと思ってるから、絶対にドイツに行きたい。ホントに懸けてるんだ。自分に出来ることを一生懸命やって頑張るから、みんなもっと必死に、例えば一対一では
絶対に負けないだとか、そういう気持ちを練習から見せて行こうよ。戦術がどうこう言うよりもまず、自分にできることをしっかりとやろうよ」

アブダビの夜』として知られるこのミーティングについて選手に聞くと、まるで申し合わせたよう「アツさんが戦う気持ちを出そう、一対一に勝とうっていうような話をしてくれた」という答が返ってくる。三浦が忘れているセンテンスを覚えている選手もいた。

このままではバーレーンに勝てない。本大会出場が遠のく。危機感から出た三浦の熱い思いは、選手たちへストレートに響いたのだった。

「みんなこう、前のめりになるような感じで『うん、うん』って聞いてくれて。そのときはホントに聞いてくれた」

三浦が口火を切ったミーティングは深夜におよんだ。レギュラーも控え選手も関係ない。遠慮のない意見がぶつかり合う。その前提には、ワールドカップに出たいという思いが滲んでいる。
良かった、と三浦は思った。

「僕が代表に入ってから、あそこまで必死に、どうやって勝っていくんだってことを話し合ったのは初めてだったから」

「誰だって試合に出たいですよ。ベンチに座るためだけに代表に入っているわけじゃない。だけど、チームの足を引っ張ることだけは絶対にやっちゃいけないじゃないですか。どうやったら自分が1パーセントでもチームのためにプラスになれるかってことを考えたら・・・・・・出ている選手を勇気づけたりとかね。そういういろいろなサポートの仕方がある」

(中略)

大黒
「アツさんがよく言ってたのは、『控え組が頑張ってやれば自分たちのためにもなるし、僕らが一生懸やることで先発の選手のためにもなるって。だから、全力でやろう』って。そうか、そうやなぁって思いましたね」

しかし、05年9月のホンジュラス戦を最後に、三浦もまたチームを離れることになる。

「敗因と」 第2章 --- 団結 --- P.60 〜

P.60 〜 (文:戸塚 啓)

あの日抱いたやりきれなさの行き先を、中澤佑二はいまなら見つけることができる。
トルシエがなんで秋田(豊)さんを入れたのかが、分かりましたからね。中山(雅史)さんにしろ、秋田さんにしろ、それまで呼ばれていなかった選手が最後に入ったのは、そういうことなんだなあ、って」
「4年前はやっぱり、ちょっとモヤモヤとしたんです。何でなんだ!みたいな気持ちがあって。でも、こうやって自分がワールドカップを経験してみると、上の選手がひとこと、ふた言、声をかけてくれるっていうのが、非常に大きいのかなあって。それだけで、まとまるものもまとまりますし。大先輩が試合に出られなくても声を出してくれているっていうだけで、非常に大きいと思うんです。経験のある選手っていうのは、大舞台に必要なのかなあと」

ドイツ・ワールドカップにエントリーされた日本代表のメンバーは、20代の選手が20人を占めた「現代サッカーのピークは、25歳から29歳なんだ」という、ジーコの考えが表れた選考だった。
30歳以上の選手は川口能活楢崎正剛土肥洋一の3人だけだった。全員がGKだった。フィールドプレーヤーには、ひとりもいなかった。

(中略)

10月にチュニジアで合流したチームは、まだ何もでき上がっていないような状況だった。

藤田俊哉
「その頃はまだ、まったくの寄せ集めみたいな感じだったかな。核がないからチームにもなっていない、という。だから逆に入っていきやすいチームだったかな、いま思えば」
加地亮が代表に呼ばれたとき、最初は『ん、誰だろう』と思った。あれから加地はどんどん成長していったからね。アイツの努力はすごいよね」

−−− 「海外組」「国内組」という表現について

「やっぱりこう、みんなが意識していたような気はする。国内の選手は海外からの選手を、お客さんみたいな感じで見ていたところはあるんじゃないかな。別にどっちが上だなんて気持ちは選手だからないんだけど、日本にいる選手は下で、海外は上、みたいな。そういう雰囲気でとらえていたところは、あったんじゃないかなと思いますよ」

「国内組だけでキャンプをして、試合のときに海外組が戻ってきて、パッと試合に出る。出てまた帰る。それに違和感を持つ選手と、しかたがないなって思う選手がいるわけで。ずっと調整してきたのに、最後にひっくり返されるって思うのは分かるし、それがチームがひとつになりきれない部分。で、結果がなかなか出にくい部分もあった。個々の選手がストレスを抱えていて。でも、それは日程のことだからしょうがないし、決めるのは監督だからね」

「個々の選手がそれぞれにストレスを抱えていたと思う。あとは、あまりにも静かにサッカーをやっているっていうのも感じていた。ただ、亀裂が入るような問題でもないなって、僕自身は思っていた。そんなことでね。国内組と海外組が別れるわけでもないし、慣れてないだけだと。これだけ多くの選手が海外でプレーしたら、こんなことはいっぱいあることで。あまり神経質になる問題でもないだろうって」
「全員にまんべんなく、均等にチャンスがあるって考えるほうがおかしい、というのが僕の考え。絶対に平等はないから、誰かをうらやましいと思うなら、そっちの立場に行くしかない。不満があるんだったら、自分が不満を持たれる側に行かないと話にならないじゃないって思うんだ。そういう話をちょっとしたこともあったしね」

「そういうときに文句を言ったりするのは簡単だけど、そんなことに気を取られてチャンスを生かせないほうが、僕はよっぽど悔しい。せっかくのチャンスで監督の期待に応えられなかったり、自分のプレーに納得できないことのほうが、僕には辛いから。心の中ではね、グループのなかにいて文句があるような態度を取るなら、いるべきじゃないよって思ってた。みんなが不愉快になっちゃうでしょう。そうじゃなくて、チームのなかで勝負をして、次にどうなるかっていうのを切り開けばいいんじゃないかって」
不満気な態度を隠さない選手がいたら、藤田は進言するつもりだった。だが、若いチームメイトはギリギリのところでバランスを保っていた。

「そこはみんなプロだったと思いますよ。最終的に俺たちはどこに行きたいのか。ワールドカップに出ることでしょう。それはやっぱり、みんなの気持ちのなかにあったんだと思う。」

だからといって、現状を諦観しているつもりはなかった。できるだけさりげない形で、チーム内の空気を循環させていこうとした。

「食事のあととかに、バカみたいな話をしながら、みんなで一緒にいるとかね。初めは全然なかったから。。そういうことは、いっぱいやるようになったと思いますよ」

たくさんのチームメイトと同じテーブルを囲んだ。Jリーグで何度も対戦しているが、それまでゆっくり話す機会のなかった自分より下の世代と話をするようになった。海外組が合流すれば、彼らとも積極的にコミュニケーションをとった。

「選手によってそれぞれのスタイルがあるのは分かるけど、僕は不平不満を口にしながらやる雰囲気は嫌いなんだ。だから、いろんな状況は分かるけど、それぞれが溜め込むのもよくないから、たまにはバァッと言うのもいいんじゃない、って話をしたりね」

陰でコソコソと文句を言っても、何ら有益なことはない。建設的ではない。それよりもみんなの考えをぶつけ合い、意見をすり合わせていけばいい、というのが藤田の持論だった。そういう作業を根気よくやっていくことで、方向性が明確になっていくはずだ、と。

しかし、相反する思いも持っていた。

「代表って難しいんです。言いたいことを監督にポンと言う勇気は・・・・・・日本人にはなかなかないでしょう。やっぱりみんな代表に呼ばれたいし、一度呼ばれたら次も選ばれたい。ワールドカップに行きたいわけだから。ジーコは優しいというか、チームを一つにしたいっていうのがあった。ファミリーみたいな感じで。そういうなかでバーンと自分の主張をしたときにどっちに転ぶのかは、みんな分かっていなかったと思う。だから、出せなかった、主張する人がいなかった・・・・・・という気もする。『文句があったら言えよ』とは言ってたけど、それは大変だなとは思っていた」

中田英寿にしても、言いづらい部分はあったのではないかと藤田は思う。チュニジア遠征あたりから鋭さを増していく中田英寿の言葉にも、彼は気遣いを感じていた。

「バランス感覚はしっかりしているヤツだから、みんなのことも気にしていたし。ヒデなりに難しさを感じていたんじゃないかな。僕の場合は年上だし、『ヒデさん』っていう状況じゃないから楽だったのかもしれないけれど。ヒデも少し年上の人たちのところに入って、対等に話をしていくのが好きなタイプでしょう。これが『海外でやってるヒデさん』っていうところから入ると、ちょっと存在が大きすぎ大変だよね」

国内組と海外組というグループ分けに否定的だった藤田だが、ひとつだけ気になることがあった。ドイツ・ワールドカップでチームを混乱させる齟齬を、すでに藤田は感じていたのである。

「海外でプレーすると、ボールを奪いにいく感覚が、Jリーグのサッカーとは違うんですよ。そのギャップがあるなぁ、と。僕もボールに対してディレイすることが多い。こう、見るっていうのかな。それが悪いわけじゃないんだけど、海外ではもう少しボールに噛み付くシチュエーションが多いんですよ。国内っていう分け方がいいのかどうかは分からないけど、日本でサッカーをしているとディレイすることが多い。で、ひとりはディレイしたい、ひとりは行きたいっていうギャップが出ちゃう。僕は国内と海外でやって、この問題はすごくあるなぁというのを感じてた」

「隙あらばひとりで取っちゃうといのがあっちの選手なんだけど、でも理想論を言えばひとりが行ったらみんながギュッと続くもの。その続いていくひとり目の距離を1メートルにするか、2メートルにするか、3メートルにするか。やっぱり海外だとその距離がすごく近いんです。そこに不満を持っていたんじゃないかな、ヒデは。で、そこをチームとしてどうやって行こうか、考えていたんじゃないかな」

ここでジーコが明確なスタンスを示せば、チーム内の混乱は収まったかもしれない。だが、ジーコはあくまで選手の自主的な判断に委ねた。

(中略)

チームの結束が一気に高まったのは、7月下旬からのアジアカップである。連覇を成し遂げた直後のミックスゾーンで、中澤が実感を込めて話した。
「サブの選手たちの存在はすごく大きい。それなしに、試合に出る11人の存在はありません。試合に出る選手を、すごく盛り上げてくれるんですよ。選手以外の裏方の人たちの力も大きいし、チーム全体で戦っている。この3週間で結束が強まったと思います」

重慶、済南、北京を転戦した日々では、玉田圭司も控え選手の後押しを強く感じた。
バーレーン戦で特に思ったんですけど、あんなに頑張ってくれてるんだから、前線が頑張らないといけない、という気持ちがあったんです。しかも延長になったときに、サブの土肥さんとか俊哉くんとかアツ(三浦淳宏)さんとかが、すごく声をかけてくれて。土肥さんはすごい分析をしてくれて。『ディフェンスは何人か足がつってるから、お前のスピードで行くしかない』って言われたりとか。もう最後はその言葉が頭に浮かんだんですよ。だからもう、突っ切るしかない、と思っていけた。サブの人たちの後押しを、すごい感じたんですよ」

試合が終わるたびに軽くアルコールを口にして、誕生日の選手がいればみんなで祝った。盛り上げ役の選手が空気を和ませた。川口能活がひとつ下の世代からいじられるようになったのも、中国で過ごした3週間がきっかけだった。

(中略)

大黒
「みんなの気持ちが嬉しかったんです。3人しか交代できないのは分かっていて、僕が出たから出られない人がいた。でも、みんなが『頑張ってこいよ』って言ってくれた。メンバーに入れなかった人たちも、、気持ちは一緒やと思う。僕は3週間くらいBチームでやってましたけど、チーム全体の一体感をすごく感じたんです。みんなが勝つことを目的にやっていた」

「敗因と」 第1章 --- 愛憎 --- P.53 〜 P.57

P.53 〜 P.57 (文:戸塚 啓)

システムを併用したのは、選手の柔軟性を評価していたからだった。2つのシステムに対応できると判断したからだった。

ジーコ
「サッカーはマニュアル化できない。ケーキのレシピみたいなものはないんだ。戦術や約束事はもちろんあるけれど、対戦相手もいるわけだし、試合中のとっさの判断で変えていかなければいけない部分がある。状況判断は選手自身がするもので、そうじゃなければプレーする意味がない。2つのシステムを併用してきたことで、どちらでも迷わずに自信を持ってプレーできるチームになっていた」

監督に就任する前から、日本人の潜在能力を高く評価していた。だから、自由を与えた。
「いまの世代は大きなクオリティがある。2002年はメンタルの領域であと少し足りなかった。もしメンタルが強ければ、ベスト16で負けなかったはずだ。日本はテクニックと戦術の面で劣っているのではなく、自信と勝利への欲求が足りない。私の仕事は成功を欲する気持ちをかきたてることだった。そのためにピッチ上で確実性、責任、自由を与えた。積極性も要求した。以前の日本人は命令を聞くだけだったが、状況によっては決められたものから外れることも要求した。日本は技術を持ってるんだから、それを生かすためにも精神的な強さを備えなければいけなかったんだ。4年もかかったけれど、それは、植え付けることができたと思っている」

それによって、チームは勝者のメンタリティを獲得した。選手は自分を信じることができるようになった、、という手応えをつかんだ。

「この4年間の強化のなかで、絶対に試合を諦めない精神的な強さが身についたと思う。最後まで試合を捨てなければ何かが起こる。それを信じてた戦えということを繰り返し言ってきた。エネルギーが何かの物質であるとしたら、その最後の一滴がなくなるまで戦えと。埼玉スタジアムでの最終予選のバーレーン戦は、決勝点がオウンゴールだから『幸運だった』とマスコミの人たちに言われた。ジーコはツキがある、と。本当にそうだろうか。どんな状況でも自分たちのサッカーができる冷静さや精神的な安定がなければ、ああいう得点は生まれない。私は言い続けてきた。とにかく自分を信じろ。俺は君たちを信じているんだから、君たちは自分の力を信じろと。それが実行されてきたから、チェコに勝ち、イングランドと引き分けた。コンフェデではヨーロッパ王者のギリシャに勝ったんだ」

そして、何よりも彼が頼もしく感じていたのが、チームの一体感だった。それこそは、ワールドカップへ乗り込むジーコの支えだったと言っていい。準決勝進出を目標に設定した根拠だった。大会前にこう語っている。

「現代サッカーでは、スタメンの11人だけで90分間を戦うことはできない。スタメンとベンチを合わせたひとつのチームが強くないと勝てないんだ。我々のチームは、10分でも20分でも全力で戦える選手の集まりなんだよ。ひとつの象徴的な例が中田浩二だ。彼は前回のワールドカップでは全試合に出場したが、今回はベンチスタートになった。それでも、ひとつのグループの一員として自分はいるんだということで、与えられた役割ですべてを出し切ってくれる。スタメンの選手もベンチの選手の勢いを感じることで、さらにチームに勢いがついていくからね。我々はクリスマス・イブの七面鳥にはならない。本番前に殺されるチームではないんだ」

ジーコは選手を信頼した。信じていた。
戦術的なアドバイスを最小限に止めたのも、チーム内の人間関係に深く入り込んでいかなかったのも、選手たちを信頼していたからだった。ドイツへ連れていった23人の選手たちは、代表のユニホームを着るにふさわしい誇りと責任と自覚を持っている。そう思えるだけの戦績を、4年間のなかで作り上げてきた。信頼が揺るぎそうな場面に直面しても、負の感情を払拭できる勝利の記憶があった。

いまでも彼は、選手はすべてを出し切ってくれたと信じている。思うような結果を収めることはできなかったが、出し惜しみをしたとは思っていない。自分が信じた選手を責めるような気持ちは一滴たりともない。
だから、グループリーグ敗退という結末を迎えても、「ありがとう」と言うことができた。
それを罪と言うことができるだろうか。
過ちと言うことができるだろうか。
敗因をジーコひとりに押しつけられるだろうか。
鈴木(通訳) にはできない。たった一度でもジーコに共感できなかった自分を悔やむ。そして、思う。
ジーコは少しだけ、優し過ぎたのかもしれないと。

「敗因と」 第1章 --- 愛憎 --- P.50 〜

P.50 〜 (文:戸塚 啓)

ジーコが嘆いたメンタリティの低下は、他ならぬジーコの責任だとする論調がある。
ドイツの大衆紙『ビルト』のフィリップ・アレンス記者は、ジーコ中田英寿の距離感に疑問を抱いていたひとりである。『ビルト』の日本代表担当だった彼は、ボンの練習場に通うことを大会中の日課にしていた。
「練習中のジーコは、イタリア語を話せる中田英寿としか話していなかった。彼は日本のビッグスターだ。監督がビッグスターとだけ話しているのを、他の選手が見たらどう思うか?これは危険なことだよ」

ジーコは即座に否定した。
「なぜ?自分は本当にオープンだったし、こっちにきてくれれば誰とでも話をした。ヒデを特別扱いしたならしかたないけど、そんなことがあり得るかい?みんな同じだよ。だいたい彼と話していることなんて、本当に普通の内容なんだ。『家族は元気?』とかその程度のことなんだ。サッカーのことなんてほとんど話していない」

「誰と誰の仲が悪いとかいう話は、ブラジルにだってあることだ。でも、自分とヒデについてそういうことを言われているのは知らなかった。もし本当にそう考えている選手がいるとしたら、とても残念なことだ」

中田英寿との関係だけではない。日本代表を率いたジーコの4年間は、監督としての資質を問われた日々だった。
選手の選考に一貫性がない。Jリーグで結果を出しても、なかなか招集されない選手がいた。海外へ移籍したら、いきなり代表に呼ばれた選手がいた。
システムを固定しない。3バックと4バックの併用は、選手たちを混乱させた。
控え選手のモチベーションを考えなかった。紅白戦ではAチームとBチームをはっきりと分けてしまい、交代で使いそうな選手もAチームに混ぜなかった。
戦術がない。選手任せだった。
大会や試合が終わるとすぐに、ブラジルへ帰ってしまう。リーグ戦があるのに日本にいない。特定のスタジアムでしかJリーグのゲームを視察しない。
大会前から噴出していた様々な批判は3つの試合の結果に確かな影響を持っていた。直接的な敗因ではなくても、試合を構成する要素のひとつとなっていた。

「敗因と」 第1章 --- 愛憎 --- P.46 〜

P.46 〜 (文:戸塚 啓)

リトバルスキー
「自分の考えでは問題は中村ひとりにあったわけではないんです。ひとりぐらいコンディションの悪い選手がいても、何の問題もなかったんだ。ただ、オーストラリア戦とかクロアチア戦は、3人ぐらいの選手が機能していなかった。そうなると話は変ってしまう。ジーコが鹿島でプレーしていた頃なら、彼はずっと前に残っていても、サントスとか本田(泰人)がカバーしてくれていたからよかったんだ。ゲームを決められるようなスター選手を使うなら、そのために最低でも2人の選手が犠牲的なプレーをしないといけない。その周りを固めるべき選手が、うまく準備ができていなかったというか、フィットしていなかった。今回の日本のように、中村も中田英寿も高原もズタズタでは問題が起こるばかりだ。とくに70分を過ぎてからは、日本の選手はクタクタで身体が動いてなかった」

オーストラリアのグレッラは、試合中にこんな印象を抱いていた。
「最後の20分ぐらいは、みんなペースが落ちていたように思いますね。限界にきていたのかもしれない。僕がマークをしていた中村も、前半30分ぐらいまでは抑えるのが大変だったけど、そのあとはボールが回ってくることが少なくて、彼はゲームの外に追い出された感じになっていた。僕の仕事は楽になりましたよ」

ジェイソン・クリナ
「僕たちは体力のあるチームだから、絶対に90分プレーできる。でも、日本はそうじゃないことを知っていたよ。実際、1時間経ったら日本の選手は死んでしまったね。だから最後の10分で逆転できたんだ」

クロアチアダリオ・シミッチ (2006年ドイツ大会と98年フランス大会で日本と対戦)
「日本対オーストラリアを観たときに、オーストラリアの方がコンディションが整っているな、と感じました。日本に比べると確信を持ってプレーしていたから。実際に日本と対戦したときに僕が思ったのは、、ちょっと熱がないのかな、ということ。でも、日本はいいプレーをしていたから、0−0で引き分けたのは幸運だったと僕は思っているんです。ただ、何かが足りなかったですね。98年のチームの方が、もっと危険だった。攻撃的な気持ちは今回も感じたけれど、8年前のチームのほうがアグレッシブだったと思いますね。もっと強かったし、もっと熱かったし、もっと速かった。準備も今回よりできていたと思います」

ミカイル・ゲルシャコビッチ (2002年ロシア代表コーチ)
「メンバーは4年前とほとんど同じなのに、今回は全然モチベーションを感じなかった。2002年の大会は、自国開催だから勝たなければいけないというオーラのようなものが出ていたが、今回はまったくなかったね。2002年のチームなら、オーストラリアには勝っていただろうに」

ジーコが何も気がつかなかったわけではない。オーストラリア戦後の練習では、グラウンドに怒鳴り声が響いた。4年間で1度もなかったことだから、通訳の鈴木ははっきりと覚えている。
「いつもと違うなというのがすごくあって、ジーコが『今日は全然ダメだ』と。『まったく意欲が感じられない。何のためにこの練習をしているのか分かっているのか。草サッカーの世界大会に来ているんじゃないんだぞ。プロとして国を懸けてやっているんだぞ』というようなことを話したんですよ。それも、かなり語気を荒らげて」

オーストラリアに負けたことで、チーム内の意見の隔たりは隠しきれなくなっていた。
前から奪いにいくのか。一度下がるのか。そもそも、どこからボールを奪いに行くのか。複数の意見がぶつかりあうばかりで、結論に辿り着かない。

選手同士の話し合いで解決策を探し出すのは、ジーコがずっと言い続けてきたことである。だが、ジーコには意見がまとまるようには見えなかった。意思統一ができないために、個々のパフォーマンスも低下していた。声を荒げたのはそのためだった。

ジーコ
「何となく、何かが足りないんじゃないかなと思ったときはある。アジアカップのときは、ベンチがすごい勢いで盛り上げていた。チームが一丸となって、絶対にこの試合に勝つんだという空気があった。そういう感じが、ちょっとなかったんだ」

それでも不安は感じなかったとジーコは言う。
「彼らは修羅場をくぐっているから、絶対に大丈夫だと思っていた。自分は選手を信じていた。練習中のパフォーマンスが少し落ちていても、日によって調子が悪いというのはあるわけだし、自分が選んだ選手だから。翌日になれば気持ちをガっと盛り上げてくれて、いままでのように結果を出してくれるだろうと思っていたんだ」

「ワールドカップは勝つために行く場所だ。代表のユニホームを着ている誇りは、すべてに優るものだと私は思う」

それだけにジーコはブラジル戦がいまでも納得できない。
負けたからではない。アジアカップや最終予選で見せたメンタリティを、どこかに置き忘れてしまったことが信じ難かった。

「前半45分まではリードしていて、内容的にも悪くなかった。それが46分に失点だよ。日本のマイボールがだんだん後ろに下がってきて、川口が蹴って相手のスローインになった。そこからの失点だ。しっかりキープしなきゃいけない時間帯だ。練習では何度も確認していたことだ。一瞬の駆け引きが最後に響くことは、それまでの試合で何度も味わってきたはずなのに。でも、まだ後半が残っていた。可能性は残っていた」

だが、ジーコは非情な現実を見せられる。
「まるで負けが決まったように、シーンとしていたんだ。お葬式みたいだったよ」