「敗因と」 第2章 --- 団結 --- P.60 〜

P.60 〜 (文:戸塚 啓)

あの日抱いたやりきれなさの行き先を、中澤佑二はいまなら見つけることができる。
トルシエがなんで秋田(豊)さんを入れたのかが、分かりましたからね。中山(雅史)さんにしろ、秋田さんにしろ、それまで呼ばれていなかった選手が最後に入ったのは、そういうことなんだなあ、って」
「4年前はやっぱり、ちょっとモヤモヤとしたんです。何でなんだ!みたいな気持ちがあって。でも、こうやって自分がワールドカップを経験してみると、上の選手がひとこと、ふた言、声をかけてくれるっていうのが、非常に大きいのかなあって。それだけで、まとまるものもまとまりますし。大先輩が試合に出られなくても声を出してくれているっていうだけで、非常に大きいと思うんです。経験のある選手っていうのは、大舞台に必要なのかなあと」

ドイツ・ワールドカップにエントリーされた日本代表のメンバーは、20代の選手が20人を占めた「現代サッカーのピークは、25歳から29歳なんだ」という、ジーコの考えが表れた選考だった。
30歳以上の選手は川口能活楢崎正剛土肥洋一の3人だけだった。全員がGKだった。フィールドプレーヤーには、ひとりもいなかった。

(中略)

10月にチュニジアで合流したチームは、まだ何もでき上がっていないような状況だった。

藤田俊哉
「その頃はまだ、まったくの寄せ集めみたいな感じだったかな。核がないからチームにもなっていない、という。だから逆に入っていきやすいチームだったかな、いま思えば」
加地亮が代表に呼ばれたとき、最初は『ん、誰だろう』と思った。あれから加地はどんどん成長していったからね。アイツの努力はすごいよね」

−−− 「海外組」「国内組」という表現について

「やっぱりこう、みんなが意識していたような気はする。国内の選手は海外からの選手を、お客さんみたいな感じで見ていたところはあるんじゃないかな。別にどっちが上だなんて気持ちは選手だからないんだけど、日本にいる選手は下で、海外は上、みたいな。そういう雰囲気でとらえていたところは、あったんじゃないかなと思いますよ」

「国内組だけでキャンプをして、試合のときに海外組が戻ってきて、パッと試合に出る。出てまた帰る。それに違和感を持つ選手と、しかたがないなって思う選手がいるわけで。ずっと調整してきたのに、最後にひっくり返されるって思うのは分かるし、それがチームがひとつになりきれない部分。で、結果がなかなか出にくい部分もあった。個々の選手がストレスを抱えていて。でも、それは日程のことだからしょうがないし、決めるのは監督だからね」

「個々の選手がそれぞれにストレスを抱えていたと思う。あとは、あまりにも静かにサッカーをやっているっていうのも感じていた。ただ、亀裂が入るような問題でもないなって、僕自身は思っていた。そんなことでね。国内組と海外組が別れるわけでもないし、慣れてないだけだと。これだけ多くの選手が海外でプレーしたら、こんなことはいっぱいあることで。あまり神経質になる問題でもないだろうって」
「全員にまんべんなく、均等にチャンスがあるって考えるほうがおかしい、というのが僕の考え。絶対に平等はないから、誰かをうらやましいと思うなら、そっちの立場に行くしかない。不満があるんだったら、自分が不満を持たれる側に行かないと話にならないじゃないって思うんだ。そういう話をちょっとしたこともあったしね」

「そういうときに文句を言ったりするのは簡単だけど、そんなことに気を取られてチャンスを生かせないほうが、僕はよっぽど悔しい。せっかくのチャンスで監督の期待に応えられなかったり、自分のプレーに納得できないことのほうが、僕には辛いから。心の中ではね、グループのなかにいて文句があるような態度を取るなら、いるべきじゃないよって思ってた。みんなが不愉快になっちゃうでしょう。そうじゃなくて、チームのなかで勝負をして、次にどうなるかっていうのを切り開けばいいんじゃないかって」
不満気な態度を隠さない選手がいたら、藤田は進言するつもりだった。だが、若いチームメイトはギリギリのところでバランスを保っていた。

「そこはみんなプロだったと思いますよ。最終的に俺たちはどこに行きたいのか。ワールドカップに出ることでしょう。それはやっぱり、みんなの気持ちのなかにあったんだと思う。」

だからといって、現状を諦観しているつもりはなかった。できるだけさりげない形で、チーム内の空気を循環させていこうとした。

「食事のあととかに、バカみたいな話をしながら、みんなで一緒にいるとかね。初めは全然なかったから。。そういうことは、いっぱいやるようになったと思いますよ」

たくさんのチームメイトと同じテーブルを囲んだ。Jリーグで何度も対戦しているが、それまでゆっくり話す機会のなかった自分より下の世代と話をするようになった。海外組が合流すれば、彼らとも積極的にコミュニケーションをとった。

「選手によってそれぞれのスタイルがあるのは分かるけど、僕は不平不満を口にしながらやる雰囲気は嫌いなんだ。だから、いろんな状況は分かるけど、それぞれが溜め込むのもよくないから、たまにはバァッと言うのもいいんじゃない、って話をしたりね」

陰でコソコソと文句を言っても、何ら有益なことはない。建設的ではない。それよりもみんなの考えをぶつけ合い、意見をすり合わせていけばいい、というのが藤田の持論だった。そういう作業を根気よくやっていくことで、方向性が明確になっていくはずだ、と。

しかし、相反する思いも持っていた。

「代表って難しいんです。言いたいことを監督にポンと言う勇気は・・・・・・日本人にはなかなかないでしょう。やっぱりみんな代表に呼ばれたいし、一度呼ばれたら次も選ばれたい。ワールドカップに行きたいわけだから。ジーコは優しいというか、チームを一つにしたいっていうのがあった。ファミリーみたいな感じで。そういうなかでバーンと自分の主張をしたときにどっちに転ぶのかは、みんな分かっていなかったと思う。だから、出せなかった、主張する人がいなかった・・・・・・という気もする。『文句があったら言えよ』とは言ってたけど、それは大変だなとは思っていた」

中田英寿にしても、言いづらい部分はあったのではないかと藤田は思う。チュニジア遠征あたりから鋭さを増していく中田英寿の言葉にも、彼は気遣いを感じていた。

「バランス感覚はしっかりしているヤツだから、みんなのことも気にしていたし。ヒデなりに難しさを感じていたんじゃないかな。僕の場合は年上だし、『ヒデさん』っていう状況じゃないから楽だったのかもしれないけれど。ヒデも少し年上の人たちのところに入って、対等に話をしていくのが好きなタイプでしょう。これが『海外でやってるヒデさん』っていうところから入ると、ちょっと存在が大きすぎ大変だよね」

国内組と海外組というグループ分けに否定的だった藤田だが、ひとつだけ気になることがあった。ドイツ・ワールドカップでチームを混乱させる齟齬を、すでに藤田は感じていたのである。

「海外でプレーすると、ボールを奪いにいく感覚が、Jリーグのサッカーとは違うんですよ。そのギャップがあるなぁ、と。僕もボールに対してディレイすることが多い。こう、見るっていうのかな。それが悪いわけじゃないんだけど、海外ではもう少しボールに噛み付くシチュエーションが多いんですよ。国内っていう分け方がいいのかどうかは分からないけど、日本でサッカーをしているとディレイすることが多い。で、ひとりはディレイしたい、ひとりは行きたいっていうギャップが出ちゃう。僕は国内と海外でやって、この問題はすごくあるなぁというのを感じてた」

「隙あらばひとりで取っちゃうといのがあっちの選手なんだけど、でも理想論を言えばひとりが行ったらみんながギュッと続くもの。その続いていくひとり目の距離を1メートルにするか、2メートルにするか、3メートルにするか。やっぱり海外だとその距離がすごく近いんです。そこに不満を持っていたんじゃないかな、ヒデは。で、そこをチームとしてどうやって行こうか、考えていたんじゃないかな」

ここでジーコが明確なスタンスを示せば、チーム内の混乱は収まったかもしれない。だが、ジーコはあくまで選手の自主的な判断に委ねた。

(中略)

チームの結束が一気に高まったのは、7月下旬からのアジアカップである。連覇を成し遂げた直後のミックスゾーンで、中澤が実感を込めて話した。
「サブの選手たちの存在はすごく大きい。それなしに、試合に出る11人の存在はありません。試合に出る選手を、すごく盛り上げてくれるんですよ。選手以外の裏方の人たちの力も大きいし、チーム全体で戦っている。この3週間で結束が強まったと思います」

重慶、済南、北京を転戦した日々では、玉田圭司も控え選手の後押しを強く感じた。
バーレーン戦で特に思ったんですけど、あんなに頑張ってくれてるんだから、前線が頑張らないといけない、という気持ちがあったんです。しかも延長になったときに、サブの土肥さんとか俊哉くんとかアツ(三浦淳宏)さんとかが、すごく声をかけてくれて。土肥さんはすごい分析をしてくれて。『ディフェンスは何人か足がつってるから、お前のスピードで行くしかない』って言われたりとか。もう最後はその言葉が頭に浮かんだんですよ。だからもう、突っ切るしかない、と思っていけた。サブの人たちの後押しを、すごい感じたんですよ」

試合が終わるたびに軽くアルコールを口にして、誕生日の選手がいればみんなで祝った。盛り上げ役の選手が空気を和ませた。川口能活がひとつ下の世代からいじられるようになったのも、中国で過ごした3週間がきっかけだった。

(中略)

大黒
「みんなの気持ちが嬉しかったんです。3人しか交代できないのは分かっていて、僕が出たから出られない人がいた。でも、みんなが『頑張ってこいよ』って言ってくれた。メンバーに入れなかった人たちも、、気持ちは一緒やと思う。僕は3週間くらいBチームでやってましたけど、チーム全体の一体感をすごく感じたんです。みんなが勝つことを目的にやっていた」