「敗因と」 第1章 --- 愛憎 --- P.41 〜

P.41 〜 (文:戸塚 啓)

チーム結成当初のジーコは、松田を高く評価していた。彼に近い関係者からは、「レギュラーを保証されていたのはマツだけだった」という話を聞くことができた。
しかし、2003年3月から10月までの間に、松田はジーコの招集に応えることができなかった。体調不良とケガが理由とはいえ、3度の辞退が続いてしまった。同年6月のコンフェデレーションズカップを契機にチームが変わっていくことを考えると、この時期の離脱は痛恨の出遅れとなった。

ジーコ独自の価値観もあった。3バックでも4バックでも、彼はセンターバックにシンプルなつなぎを求めた。オーバーラップを制限するわけではないが、自陣でボールを奪われるようなプレーを嫌うのである。

「宮本はフィジカルが足りないということをよく言われたけれど、コンフェデレーションズカップギリシャ戦なんかでは、パワープレーへの対応ができていて、大きな選手とも渡り合っていた。ポジショニングとタイミングさえきちんとしてれば、高さに負けないということだ。実際に彼がパワープレーでやられて失点したというのはないと思う。田中誠もそういう面でいいものを持っていた。私は相手を完全にフリーにしてしまった失点は絶対に見たくなかった。そういうことを宮本は分かっていたし、何をすべきかが整理されていた」

05年3月のちょっとした事件も、松田がジーコの構想から外れる理由となった。アウェーのイラン戦後に「田中誠が出場停止だから4バックにした」というジーコのコメントを聞いた松田が、代表に自分の居場所はないと判断してチームから離れたのである。
ジーコは表だって非難をしなかったが、松田の2大会連続のワールドカップ出場はここで可能性を失った。控え選手も含めたチームのまとまりを望み、アジアカップや最終予選のムードをドイツへ持ち込もうとしたジーコに、松田は必要なタレントではなくなってしまったのだった。

ジーコ
「熱があるとか頭痛がするとか言って練習を休んだことが、ヒデは一度もなかった。代表の活動は3日くらいしかない中で1日でも休むとそれだけでマイナスになる。絶対に休まないんだという気持ちで参加して欲しいし、そういう気持ちを持つことでだいぶ違ってくると思う。無理をして悪化させてはいけないけれど、そうなる前に予防を心がけることで練習に参加できる。しかもヒデは課題があれば練習の前でも後でも黙々とトレーニングをこなしていた。それは他の選手との違いだった。宮本も練習を休まなかった。どんなことがあっても最後までやり通していた。ワールドカップでいい成績をあげるためには、23人全員が彼らのような気持ちでなければいけないんだ」

ただし、中村は例外だった。
ワールドカップの開幕直前から風邪の症状に悩まされていた彼は、最後までコンディションを整えることができなかった。
それでもジーコは先発から外さなかった。途中でベンチに座らせることもなかった。

「いままで中村はどんな状態でもチームにプラスをもたらしてくれた。私は選手を信頼していたし、信頼は積み重ねによって生まれるものだから。彼にはヨーロッパでの経験があるし、1本のスルーパスフリーキックで日本を救ってきた。オーストラリア戦での1点だって彼から生まれたものだろう?名前だけで信頼するんじゃなくて、ずっと結果を出してきてくれた。だからワールドカップでもそういう仕事を最後の最後まで期待していたんだ」

ワールドカップ開幕の少し前にジーコは中村を呼び、
「よほどのことがない限り、お前は外さないぞ」と言った。